東軍に属した大名たちはとうに帰国していたはずだから、「商品」となっていた女性や男童部が京都に相当に滞留しており、その一部が海外市場をめざして若狭へ送り込まれていたとみられる。

ここで、京都から若狭へと向かう街道沿いに設けられた女改め関所とその周辺を描いた絵図が伝存しているので掲げたい。それが、内閣文庫『朽木家古文書』下巻に収録された「近江国高島郡之内朽木兵部少輔(宣綱)領分朽木谷之絵図」の表題をもつ絵図である。

出典=内閣文庫『朽木家古文書』下巻

これは、縦70センチ・横81センチの方量で、全体に朽木領が描かれ、近江国今津から若狭国小浜に抜ける九里半街道沿いの山中村(滋賀県高島市今津町)に設けられた関所(山中関)が柵によって簡略に描かれ、その下に「女改御関所」と注記されている。

本絵図については、「内閣文庫が所蔵している江戸幕府関係古文書類の中に混入していたもの」と指摘されている。おそらくは、朽木宣綱が領内の関所の様子を知らせるために幕府に提出したものとみてよいだろう。

朽木領に設けられた女改め関所が、江戸時代を通じて存続・機能していたことからも、戦後処理のための時限立法とみられてきた元和二年十月の人身売買禁止令の評価については、再考の余地が生じる。

「鉄砲伝来」が日本人奴隷の海外流失をもたらした

それにしても、大航海の時代の到来によって、国内の戦禍がそのまま海外へと不幸を拡散したことは深刻である。

鉄砲伝来とその普及が、農村の若者の傭兵化を促進し戦争を大規模化させた。その結果が、大勢の日本人奴隷の海外流失へとつながったのだ。二度と故郷へは帰れない大勢の女性や子供たちの存在が、そこにはあった。

「公儀軍」だったはずの幕府軍が、禁止されていた人盗り・物盗りを堂々とおこなっていたのは象徴的である。

厳禁していた人身売買も、あくまでも建前だったとみざるをえない。拙著『戦国日本の軍事革命』で詳述したように、誕生したばかりの近世大名軍隊も、実態的には中世の軍隊がもつ野蛮性を十分には克服できないまま、天下泰平が訪れたのであった。

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