あなたは『走れメロス』のような行動をとれるか

またよく知られている物語で言うと、太宰治の短編小説『走れメロス』に出てくるメロスとセリヌンティウスのような関係がそう。念のため、あらすじを紹介しておくと、

メロスは邪智暴虐の王の暗殺に失敗。捕らえられるが、妹の結婚式を執り行うために3日間だけ“保釈”される。そのとき人質にされたのが、親友のセリヌンティウス。再び城に戻るまで、走って走って走り抜くメロスながら、途中、一度は挫折しかかる。それでも約束通り帰還し、暴君は感動して改心する。

あなたがセリヌンティウスだったら、どうですか? いくら親友とはいえ、自分の命と引き替えにすることはできませんよね。物語としては非常に感動的ですが、現実にそんな関係になるほどの親友は持てない。いや、そこまでの親友はいなくてもいい、というのが正直なところでしょう。

親友を求める気持ちに水を差すつもりはないけれど、「親友」という言葉の裏に潜むこういった物語を思い出すと、気持ちが軽くなりますよね。

「親友はいてもよし。いなくてもまたよし」

そう思うことで肩の力が抜け、人と接するときも妙に前のめりにならず、ごくふつうにつき合えるでしょう。福沢のように、

「親友? そう呼べるほどの深いつき合いをしている友人って、いないよね」

とサラリと言ってのけることができたなら、「ほー、強い人だな」という感じで、ちょっとかっこいいと思います。

親密な関係性ではなく、淡白な交流を勧めた福沢諭吉

もっとも福沢は、人づき合いが嫌いだったり、苦手だったりしたわけではありません。むしろ「社交上手」なほうでしょう。福沢が実践した人づき合いの基本は、ひとことで言うと「淡交」──つかず離れず、淡白に交流することです。

たしかにべったりしたつき合いというのは、気持ちの距離感が縮まる分、どろどろした人間関係に陥りやすいような気がします。相手が自分の期待通りに動いてくれなかったり、自分を大切に思ってくれなかったりすることが不満で、トラブルに発展する例が多いのです。

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だからつき合いが長続きせず、「あんなに親しくしていたのに、最後は憎み合って関係を断つことになってしまった」みたいなことになる場合すらあります。そういう意味でも、親密なつき合いよりも「淡交」のほうが、人間関係で悩むことが少なくて良いように思います。

それはさておき「親友」のいない福沢は、一方で「新友」を持つことをすすめています。

学問のすゝめ』に良い言葉があります。

人間の交際は繁多にして、三、五尾の鮒が井中に日月を消するとは少しく趣を異にするものなり。人にして人を毛嫌いする勿れ。

人間の交際を鮒と比べて語っているのが、福沢らしい、ユーモアに富んだところ。「三尾、五尾の鮒が井戸のなかで暮らしているのとではワケが違う」とし、意訳すると、こんなふうに述べています。

「人間なんだから、広い世界で大勢の人と交わり、そのなかでいろんなことを学んだり、力を合わせて何かに取り組んだりすればいい。人づき合いを毛嫌いせず、億劫がらずに誰とでも仲良くするよう努めなさい」