10人会ったうちの1人でも友達になってくれれば上出来

友だちが少なくて悩んでいる人たちからは、「それができなくて寂しい思いをしているんじゃないか!」と言われそうですが、福沢はこうも言っています。

「10人の内1人、気の合う人が見つかる偶然があったとすると、20人に会えば1人の偶然を得ることができる。だから、たくさんの人と接し、交流するといい」

野球なら“一割バッター”でOKと考えると、さほどの負担は感じませんよね。いまはSNSというツールがあるおかげで、気の合う人を見つけやすくなっていますし、「新友」「淡交」をキーワードにすると、意外と簡単に人づき合いを広げていけそうです。さらに福沢は、同じく『学問のすゝめ』のなかで、友だちづくりのポイントをこう述べています。

顔色容貌の活発愉快なるは、人の道義の一箇条にして、人間交際に於て最も大切なるものなり。人の顔色は猶家の門戸の如し、広く人に交て客来を自由にせんには、先ず門戸を開て入口を洒掃し、兎に角に客附きを好くするこそ緊要なれ。

ようするに「笑顔が“千客万来の人づき合い”を招く」と言うのです。「玄関がきれいに掃除されている家にたくさんのお客さんが訪れるように、人は、いつも笑顔で上機嫌でいる人に寄ってくる」としています。

なるほど言い得て妙。本人はごくごくふつうの気分でも、いつも不機嫌そうに、あるいは怒っているように見える人って、いますよね? そんな表情を見たら、誰だって近寄りたくないでしょう。

そういう人はどうしても人を遠ざけてしまうので、ちょっと意識して笑顔をつくるといいですね。

「人づき合いは軽やかに」

をモットーに、“淡交の輪”を広げていくことをおすすめします。

雑談さえしていれば孤独にならない

友だちはいなくてもいいのですが、「一日中、誰とも口をきかない」日が続くのは問題です。なぜならコミュニケーションするのがどんどん面倒になって、自分の身から「孤独臭」のようなものが漂うようになるからです。

想像してみてください、「孤独臭」のする人とは、誰もつき合いたいとは思わないですよね。そこまで“ゼロ・コミュニケーション”を続けてはいけません。ふつうに考えると、誰ともしゃべらない日が続けば、孤独感に耐えられなくなりそうですが、そうでもないようです。

フョードル・ドストエフスキーがシベリア流刑に処されたときの4年におよぶ獄中体験と、そこで見聞したことを描いた『死の家の記録』という作品にこう書いています。

人間は従順な動物であり、どんなことにも慣れてしまうところの存在である。

獄中での辛酸な日々にさえ慣れるのですから、誰とも口をきかない程度のことなら、すぐに慣れてしまうでしょう。しかし「慣れればいい」というものではありません。一番厄介なのは、“コミュニケーション筋”とも称すべき筋肉が、みるみる衰えていくことです。

私の感覚では、三日で相当衰えますね。たとえるなら無重力状態に数日間置かれた宇宙飛行士が、地球に戻ってくると、筋肉の衰えがすさまじく、重力にも耐えられなくなるのと同じです。