情報を得てからわずか三日間で、直線距離にして約一七〇キロメートルもの道のりを無事に全軍を帰還させるのに成功したのである。これを勝家の「北国大返し」と呼んで、その見事な手腕を評価してもよいのではないか。

帰城直後から、勝家は光秀を討つための作戦にとりかかった。ここに、大問題が浮上する。若狭守護家武田氏と北近江の京極氏とその麾下の国人たちが蜂起して、佐和山城や長浜城を落城させて、北近江を占拠していたのである。

当時の若狭は、丹羽長秀が国主となっていたのだが、先述したように彼が家臣たちとともに大坂に籠城したため、信長に抑圧されていた勢力が息を吹き返したのである。しかも当主の武田元明の母は足利義昭の姉であり、正室竜子は京極高次の妹だった。

彼らの迅速で効果的な軍事行動は、やはり光秀あるいは義昭サイドとの接触なしにはありえなかったと思われる。

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空白の10日間…なぜ勝家は出陣できなかったのか

武田・京極両氏の出陣によって、北庄と大坂を結ぶ動脈北国街道が不通になった。勝家は、長秀重臣溝口氏の若狭高浜城(福井県高浜町)を経由して、大坂城の長秀と家臣の若狭衆に対する書状を届けようとした。

しかし山崎の戦いがあった六月十三日まで、情報不足と背後から武田牢人衆に襲われることを懸念して、勝家は近江に向けて出陣することができなかった。光秀方勢力による北近江路の封鎖は、成功していたのである。

大坂方も勝家方の情報が入らないことには、容易には動けなかった。膠着こうちゃく状態を打ち破ったのが、秀吉の京都をめざす爆発的な進軍だった。

したがって秀吉の「中国大返し」さえなかったら、上杉氏の反転攻勢や近江で展開していた若狭武田氏や京極氏の光秀への協力、長宗我部氏の摂津進軍とそれを支える菅氏ら淡路水軍の蠢動、さらには将軍足利義昭の帰洛への動きも予想され、光秀による室町幕府再興の可能性もあったと推測される。

勝家が上方に向けて出陣を開始したのは、結局のところ山崎の戦いが終結した後のことであった。信長の弔い合戦に間に合わなかったことが、結果的に勝家の政治的な地位をおとしめ、翌年の賤ヶ岳の戦いにおける敗戦につながった。

常識の勝家、合理性の秀吉

新史料によると、勝家は大坂城にいる織田信孝を推戴して、畿内諸地域に散在する織田家臣団が包囲網を形成して光秀を討ち取ることを構想している――(天正十年)六月十日付勝家書状。