副将軍だった毛利氏が、備中高松合戦における形勢逆転のチャンスを無駄にするはずがないと確信していたのであろう。

秀吉方は動くことができないどころか、毛利方に揉み潰されるとみていたのではないか。光秀が警戒していたのは、大坂城(信長が築城を命じたが、まだ完成してはいなかった)に籠城した織田信孝(信長三男)と副将丹羽長秀でもない。

なぜなら、本能寺の変の情報を得た彼らの軍隊が、その衝撃から雑兵を中心に逃げ去ってしまったからである。

信孝のもとにあった伊勢・伊賀出身の兵士たちは、一目散に逃げ帰ったと言われる。結局、二人は籠城するしかなかったのだ。

光秀が警戒した織田家筆頭家老・柴田勝家

光秀がマークしていたのは、越中出陣中の柴田勝家だった。光秀が戦略上抑えておかねばならないのは信長の本拠安土城(滋賀県近江八幡市)と近江一国だった。

太平記英勇伝 柴田修理進勝家〈落合芳幾作〉(図版=東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
太平記英勇伝 柴田修理進勝家〈落合芳幾作〉(図版=東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

天下人の本城を確保することは当然であるが、近江には自らの居城坂本城(大津市)や、秀吉の長浜城(滋賀県長浜市)と長秀の佐和山城(滋賀県彦根市)もあった。織田家を支える重臣たちの居城を接収しておくことは、戦略上きわめて重要である。

勝家は、近江の北隣越前の北庄城(福井市)に配置されていた。もし彼が越中から無事に帰還すれば、もっとも至近の強敵になる。光秀は、それを想定して変前から勝家シフトを敷いていた。なお上杉氏関係史料には、光秀が本能寺の変の情報をあらかじめ越中魚津城(富山県魚津市)まで知らせていたことを示す書状がある。

六月三日の魚津落城後から山崎の戦いまでの十日間の勝家の動向については、これまで関係史料がないことからわかなかった。ところが、近年個人蔵ではあるが関係史料群が発見され勝家の動向が判明したので、その成果をご紹介しよう。

勝家の「北国大返し」…新史料が明かすもう一つの“大返し”

新史料からは、勝家の率いた北国軍が魚津城を陥落させ、さらに越中宮崎城(富山県朝日町)を落として越後に侵入し、上杉景勝の春日山城(新潟県上越市)をめざしていたことが確認された。

勝家は、六月六日に変の情報を得て退却を開始した。あわせて春日山城に迫っていた信濃の森長可や関東の滝川一益の軍隊も退却することで、上杉氏は滅亡の危機を避けることができ、反転攻勢の動きをみせた。

勝家は、与力の越中の佐々成政や能登の前田利家をそれぞれの居城に帰還させ領内を固めさせ、彼自身は六月九日に北庄に帰城したことが確認された。