この解答は、六月十三日の山崎の戦いの直前に、秀吉と長秀が合流し、信孝の命令を奉じる連署副状を発給することで出た(六月十三日付筒井順慶宛秀吉・長秀連署副状)。
一時は光秀方を表明した大和郡山城(奈良県大和郡山市)の筒井氏に対して、正式の軍事命令を伝えたのである。
ここに、新史料をもとに勝家の動向を年表にまとめてみよう。
本能寺の変がもたらした世代交代
これまでわからなかった勝家の動きが判明した結果、北近江に展開した武田・京極両氏の軍事行動が効いており、光秀の勝家シフトが有効だったことが判明した。
主君父子を葬った本能寺の変は完璧だったが、その後の動きの拙劣さが長らく指摘されてきた光秀である。しかし、それはあくまでも結果からみた誤解だったのではないか。
まったく予想外の秀吉の「中国大返し」さえなければ、帰洛を遂げた足利義昭を、光秀や藤孝といった幕府衆はもとより、毛利氏をはじめ上杉氏や長宗我部氏ら諸大名が支える室町幕府体制の復活もありえたのではないか。
本能寺の変から山崎の戦いに至る歴史の流れは、結果的に五十歳以上の光秀(推定五十五歳)や勝家(六十一歳)といった老齢の宿老層の滅亡につながっていった。
秀吉(四十五歳)に代表される、室町時代以来の古い権威を相対化するかわりに、正確な情報を収集し、より合理的な(狡猾と言ってもよい)判断にもとづく意志決定ができる武将のみが生き残る段階へと突入するのである。
〔参考文献〕
藤田達生『本能寺の変』(講談社学術文庫、2019年)
藤田達生編『織田政権と本能寺の変』(塙書房、2021年)