これらの事実から、平尾良光氏は「信長は外国産の鉛と火薬を偶然でなく、意図して導入していたことを示唆する。(中略)反面、武田側では鉛を生産できたとしても、火薬の入手がかなり困難だったのではないだろうか」と指摘する。
長篠の発掘事例は、天正三年までに、つまり信長の岐阜時代にイエズス会を通じて硝石や鉛を大量に輸入するルートが確保されたことを暗示するものである。この時期のイエズス会は、長崎の要塞化を開始したばかりであり、まだまだ経済基盤は弱体だったから、珍しい贈答品を贈るなどして信長の歓心を買うことで利用しようとした。
特に、鉄炮や大砲といった新兵器に関わる技術支援や軍事物資の供給は、信長にとって魅力的だったことは確実である。
このように、国内におけるイエズス会勢力の急速な浸透は相当に生臭いものであって、背後にはデマルカシオンという世界政治が横たわっていた。この一成果として、天正八(一五八〇)年の安土におけるセミナリヨ(イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関)の建設があげられる。
信長の中国遠征計画の本気度
ここで、天正十年六月の本能寺の変の直前に、信長関係者から宣教師ルイス・フロイスにもたらされた情報を抜粋する(『フロイス日本史』)。
信長は(中略)毛利を平定し、日本六十六カ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった。
よく知られた信長の中国遠征計画の一節である。「諸国を自らの子息たちに分ち与える考え」と記されていることから、情報源は信長三男の信孝周辺と推測される。この頃、彼はキリシタンになる願望をもっており、オルガンティーノ(安土セミナリヨ設立)ら宣教師たちと親しく交わっていたからである。
天下統一直前といってよいこの時期、信長は新たな政治段階に向けて画策していた。一門や近習を畿内近国に、懸案の四国地域を信孝を含む三好康長派閥に、平定予定の中国地域を秀吉(養子は信長五男秀勝)派閥に配置し、光秀ら宿老層に対して遠国への国替を断行しようとしていた。
そのような時に、次代を担う信孝らに「大陸出兵」が表明されたものと推測する。これを、信長の途方もない「野心」と一笑に付すわけにはいかないのではないか。
これには、イエズス会さらにはポルトガルの「世界戦略」との関わりを感じざるをえない。つまり、彼らに依存するほかなかった硝石や鉛を大量に確保するめどが立たなければ、このような意志表明などできるはずがなかったからである。
信長、秀吉と他の戦国大名の決定的な違い
本格的な鉄炮戦として知られる長篠の戦いに関する研究は、近年進展している。平山優氏は、従来のような三千挺の鉄炮隊(新戦法)対武田騎馬隊(伝統戦法)の図式は誤りだと断言する。すなわち、鉄炮の多寡がこの戦争の決定要因ではなく、『戦国日本の軍事革命』でもふれたように武田勢もそれなりの量を持参していたが、肝心の火薬や玉不足が大敗の要因だったと結論づけている。