スペインやポルトガルといった南欧諸国は、優秀な航海技術を武器に莫大な富を求めて海外征服をめざすことになる。彼らは、あらかじめ利権がぶつからないようにするために、ローマ教皇も交えてキリスト教以外の異教徒の世界を二分した。両国間における排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権については、一四九四年のトルデシリャス条約の締結によってルールが決定された。

すなわち、ベルデ岬諸島(アフリカ大陸最西端の岬西方の群島)の西沖の三七〇レグア(スペイン・ポルトガルで使用された距離単位、一レグアはポルトガルでは約六〇〇〇メートル)を通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、西側全域をスペイン領としたのである。今の常識からすればとんでもないことだが、両国によって勝手に未発見の諸国も含めて地球規模で領地が二分割されたのである。これをデマルカシオンとよぶ。

この条約によると、日本はポルトガル領となる予定だった。ポルトガル国王は、このような一方的な植民地化を正当化するために、ローマ教皇に働きかけて、新発見地に対するカトリック化を奨励し、保護する姿勢を示したのだ。

資金不足に悩むイエズス会と、織田信長の利害

イエズス会は、一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラらによって設立され、一五四〇年にローマ教皇パウルス三世の許可を得た、宗教改革に対するカトリック側の対応として生まれた教団である。イエズス会は精力的に布教地を求め、インドさらには中国、そして日本へと宣教師を派遣した。

リスボンのサンタ・マリア・デ・ベレン教会内の十字架につけられたキリスト、ポルトガル
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ポルトガル国王は、植民地支配の正当化のために、イエズス会に対して海外渡航の便宜や経済的援助をおこなった。したがって、イエズス会の収入の第一は、ポルトガル国王からの給付金だった。次いでローマ教皇からの年金、篤志家とくしかからの喜捨きしゃ、インド国内の不動産からの収入、公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)などがあげられる。

ただし、日本は極東にあるため行き来がままならず、これらの収入はいずれも不定期で、なおかつ教団を維持するには少額といわざるをえなかった。イエズス会の世界教団化に伴う急速な拡大と国王給付金の遅配により、日本のイエズス会は常に資金不足に悩まされたという。

信長が天下統一の意志を明らかにしたのは、岐阜時代すなわち尾張・美濃・伊勢三ヶ国を本拠とした環伊勢海政権期(初期織田政権期)だった。

永禄十一(一五六八)年の足利義昭を奉じての上洛、元亀四(一五七三)年のまき島城合戦における将軍義昭の追放、天正三(一五七五)年の長篠の戦いでの武田氏に対する勝利、このような経緯のなかで、室町幕府にかわる政権を構想したのであるが、その背景には鉄炮隊を中心とした圧倒的な軍事力の獲得があった。

長篠古戦場で見つかった「タイ産の鉛玉」

信長方が使用した鉄炮玉のなかにタイ産鉛の玉が確認されたのは、長篠の戦いの古戦場で見つかったものである。発見された二十点のうち二・五(混合)点がそれに該当する。また朝鮮半島や中国産が三点だった。