アルコールに取りつかれた人々を救うための“標準時”
アルコール飲料の販売の制限は、イギリスのヴィクトリア朝時代の規範的法律のうちで、最も論議を呼んできたものの一つだった。禁酒史家のアンソニー・ディングルは、「ヴィクトリア朝時代の人びとはアルコールに取りつかれていた。知識人や能弁家のあいだでは、社会のなかで飲むのにふさわしい場所が熱心に、徹底的に討論されており、現代のわれわれには理解し難い」と書いた。
1872年の免許法が、大衆へのアルコールの販売時間に全国的な制限を導入した最初の事例で、それ以前や以後のあらゆる法律は言うまでもなく、この法律をめぐる討論だけでも、長くつづき、苛烈なものとなった。そこには階級、自由、公衆衛生、国家権力の問題がすべて密接に関係しており、ヴィクトリア朝時代の道徳と、人間の行動を取り締まるための時計の利用に関する、またとない事例だったのである。
ヴィクトリア朝時代のイギリスでは、一時性(テンポラリティ)は抑制(テンペランス)を可能にしていたのであり、酒類販売認可時間を導入することで、国家は飲酒にタイムを宣告していたのだ。
パブでアルコールを提供していいのは「どの」時間までなのか
だが、どの時間(タイム)なのか? 1870年代には、鉄道はあったにもかかわらず、地方時はまだイギリス全土で使われており、健在だった。「カーティス対マーチ」と呼ばれる1858年のきわめて重要なある判決が、イギリスの法廷で公式時間はグリニッジ時ではなく地方時だと裁定を下していたのである。
これは抑制・禁酒(テンペランス)の法律を制定しようとしていた人びとにとって問題だった。アルコールの販売に時間制限を設けたいのであれば、二つのことが必要になる。まずは、どこのパブでも地方時、標準時のどちらで営業するのかについて合意することだ。二つ目は、誰もがその時間を正確に入手できるということだ。認可時間を過ぎてアルコールを販売していたとして、パブの経営者を告訴するつもりであれば、時間そのものが非難の余地のないものでなければ、勝ち目はないからだ。