ところが、保守色に転じた藩は月照の薩摩入りを拒否。暗に殺害を命じる。途方に暮れた西郷は月照と入水自殺を図った。月照は死亡。西郷は国臣らの懸命の介抱で息を吹き返す。逃げ延びる国臣の後ろ姿にこうべを垂れ、見送ったのが大久保利通だ。一連の経緯は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の作品にも登場する。
追われながら支援者の商家で番頭になりすまし、身を隠した国臣は薩摩に倒幕の決意を促すため再度入国を試みる。だが、薩摩はようやく公武合体に踏み出したばかりで倒幕とはギャップがあった。鹿児島の近くで待つと大久保から「入国不可能」の伝言が届く。このとき、薩摩藩を桜島になぞらえ、無念の思いを刻んだのが冒頭の「我が胸の」の歌だ。
国臣はそれでもあきらめない。身を潜めながら、今度は薩摩藩の最高権力者である藩主島津忠義の父、久光宛に建白書をまとめ上げると、飛脚を装い、薩摩入りに成功。大久保に会い、懸命に説得した。しかし、一脱藩浪士の働きかけだけでは簡単に動くはずもない。薩摩が公武合体から倒幕に転じ、維新を達成するのは、それから7年後のことになる。
その後、国臣は福岡藩に捕らわれ、投獄される。驚くのはその間の執念だ。政治犯には筆墨は与えられない。そこで、落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を編み出し、牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴った。食事につくゴマ塩の黒ゴマで「天地」の文字を描き、壁に掲げて悦に入ったりもした。自らの境遇を決してあきらめない。ある種の痛快ささえ感じる。
1年後、朝廷の命により釈放される。直後に公武合体派の薩摩・会津両藩が尊攘派の長州を京都から追放する8・18の政変が勃発。国臣は但馬の生野で挙兵を企てる(生野の変)。勝算はなかったが、藩同士で争う状況を打開し、国内統一を訴える覚悟の挙兵だった。最後は捕らわれ、未決のまま処刑された。早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37。