そういった道を歩んできたのにも理由がある。

村上さんはカーレーサーになる夢を幼少の頃から抱き続けていたのだった。

「幼稚園の時に買ってもらった『自動車のひみつ』という漫画にF1カーの写真がありました。そこからカーレーサーや、かっこいいクルマに憧れるようになりました」

工学系の短大および大学に進学したのも自動車業界に入るため。しかし、村上さんが思い描いたようにはいかなかった。

筆者撮影
村上社長

30歳を手前にして、だんだん現実が見えてきて、悶々とする日々が続いた。そんな折に秋田公立美術大学の卒業生3人と出会う。彼女たちの悲痛の叫びが村上さんの運命を変えた。

「彼女たちは秋田が好きだったので、地元で就職したかったのですが、デザイナーのような職種はなく、求人があるのは介護施設や温泉など。結局、3人でデザイン事務所を作りました。でも、営業はできないし、何とかチラシ制作の仕事を取ってきても、お客さんから『目立つように赤く、でかく書いてくれればいい』と言われる始末。あっという間に2人は辞めました」

そういう現実を目の当たりにした村上さんは、若い人たちがやりたい仕事をできるように、秋田にいい雇用を生み出す会社を作ろうと心に決めた。

これがカーレーサーに代わる村上さんの新たな夢になった。

愛娘との別れ

ただし、いきなり起業するわけにはいかない。資金もビジネススキルもまだまだ足りない。まずはさまざまな仕事を経験して腕を磨こうと、外資保険会社のセールスマンになった。

ちょうどそのころ、村上さんは結婚して、待望の第一子を授かった。

ところが、愛娘はわずか3日でこの世を去った。

「ポッター症候群という病気でした。人工呼吸器につながれて、3日間は頑張って生きていました。仏さまのような穏やかな目で僕らを見ていました。赤ちゃんの目というよりも、人生を全うした人の目だった……」

村上さんは続ける。

「人って、生まれてくる前に、この世の中で何をするという役割が決められていると言いますよね。娘は3日しか生きられないけど、このダメな父親に、命を使い切ることの大切さを教えにきたんだろうなと思いました」

大きな悲しみに暮れながらも、村上さんは誓った。娘に認められるような人生を全うしようと。

「それ以降は、生きる大切さを教えてくれた娘が天国にいるので、いつか僕が死んだとき、胸を張って会えるようにしようと思うようになりました。娘に『頑張っていたね』と言われたい。『お父さん、何していたの』とは言われたくない」