法律に残る痕跡、日本でも「黄泉がえり」があった
現地の病院や警察の杜撰さが露呈したものであるが、調べてみると死者が生き返った事例はインドなどではよくみられる。インドのスラムではまともな治療が受けられず、医師によって雑に死亡宣告された後には、すぐ埋葬されたり火葬されたりするケースが多い。高温になるインドでは、遺体の腐敗が急速に進んでしまうからだ。だが、その埋葬中や火葬中に声を発したり、遺体が動き出したりする事例は決して、少なくはない。
さすがに日本では、このような事例はないと思われる。だが、墓地、埋葬等に関する法律(墓埋法)の以下の条文が過去に「黄泉がえり」があったことを示唆している。
埋葬又は火葬は、他の法令に別段の定があるものを除く外、死亡又は死産後24時間を経過した後でなければ、これを行なってはならない。但し、妊娠7カ月に満たない死産のときは、この限りではない。
墓埋法第3条は、死亡診断がなされた後に蘇生する可能性を限りなく排除するためのバッファ・タイムとして、死亡24時間以内に火葬することを禁止しているものである。裏を返せば、過去に蘇生した人物がいたということなのだ。
たとえば、そのひとつに1872(明治5)年に愛媛県でおきた「田中藤作蘇生事件」がある。
折しも当地で一揆が勃発した。租税事務所が放火され、当時31歳の田中藤作が逮捕された。田中には死刑判決が出され、彼は絞首刑に処せられた。滞りなく処刑された田中の遺体は棺桶に入れられ、遺族に引き渡された。
故郷に戻る道中でのこと。にわかに棺の中からうめき声が聞こえてきた。その後、田中は救出され、完全に蘇生。その後26年間、生きたという。
この時、田中の扱いについて当局は困惑した。再び処刑にかける議論もあったようだが、最終的には政府が「スデニ絞罪処刑後蘇生ス、マタ論ズベキナシ 直チニ本本籍ニ編入スベシ」とする方針を出し、田中を釈放した。
田中は戸籍に復帰した。政府は、処刑そのものは終わったのだから、仮に生き返った場合は放免、という判断をしたのだ。絞首刑後、蘇生した例は他にも数例ある。