ナイジェリア神話では「カメと石」で死の起源を語る
この世のはじめには、誰も死ななかった。カメにカメおくさん、男と女、石ころたち、この世にあるものはみんな、いつまでも生きていた。そういう風に決めたのは、この世の造り主であった。
ある日、カメとカメおくさんは、小さいカメがたくさん欲しいと考えて、造り主のところにお願いに行った。造り主は言った。「そうか、子供が欲しいのか。だが、よく考えなさい。子供を持つと、いつまでも生きていることはできない。いつかは死ななければならない。さもないと、カメが増えすぎてしまうからだ」。カメとカメおくさんは答えた。「まず、子供を授けてください。そのあとでなら、死んでもかまいません」。「では、そのようにしよう」と造り主は言った。それから間もなく、カメとカメおくさんに、たくさんの子ガメが授かった。
人間の夫婦も、同じようにして造り主のところへ行き、子供を授かった。
石は、子ガメや人間の子供たちがよちよち歩き回ったり、楽しそうにしているのを見た。けれども石は、子供を欲しいとは思わなかった。だから、造り主のところに行かなかった。
このようなわけで、いまでは、男も女も、カメもカメおくさんも、死ぬ時が来る。造り主が、そう決めたから。けれども、石は、子供を持たない。だから、死ぬことはない。いつまでも、生きている。(マーグリット・メイヨー再話、ルイーズ・ブライアリー絵、百々佑利子訳『世界のはじまり』岩波書店、1998年、34〜37頁を参照し要約、一部引用した)
100万回生きたねこは「石」から「バナナ」になった
このナイジェリア神話も、神話学では「バナナ型」に分類される。亀や人間は子を産んで死ぬ、つまりインドネシアの神話でいうバナナの命を生きているのだ。そして石は、子を産むことがない代わりに個体として不死である。
この神話に照らしてみると、『100万回生きたねこ』のねこの一生は、前半部分と後半部分で、正反対の意味を与えられていることがわかる。前半部分は、「石」の命である。真の意味で死なない。死んでも生き返る。すなわち、個として永久に存続する命である。後半部分は、「バナナ」の命である。子供を作って、子孫繁栄を得ることができる。しかし、個としては死なねばならない。
ねこの命は、一生は、どういうものだったのか。死んでそれで終わっただけなのか。命は無為なのか。決してそうではない。ねこは、愛を知った。愛の果実として、子供たちを作った。それが命の代償なのだ。愛は性でありそれは死と切り離せない。エロス(愛)とタナトス(死)は表裏一体なのだ。そしてそれらは不死の対極にある。それが神話の論理である。『100万回生きたねこ』の物語は、古い神話的価値観、死と愛と生への深い洞察を、現代によみがえらせている。