ほとんどの物語の原型は神話に出尽くしている
これは、『鬼滅の刃』の鬼と人間のあり方と似ている。鬼は個として永久不滅であり、神話の石の運命を生きる。人間は死なねばならない、そのかわりに炭治郎と禰豆子のきょうだいは強い家族の絆で結ばれていて、そこには愛がある。一方の側に不死があり、他方の側には死と愛があるのだ。
しかし鬼は家族に憧れてもいる。偽りの家族を作ろうとした悲しい鬼の話も本作には描かれていた。兄と妹のきょうだいが一体となった鬼も描かれている。死の直前に人間の記憶を取り戻すまでは、愛によるつながりを失っていたが、滅びる時に、人間であったはるか昔の記憶を取り戻し、ようやく愛を思い出す。やはり、人間側の愛と死、鬼の側の愛の欠如と不死が、本作の全体を貫く柱となっていると見ることができるだろう。インドネシアのバナナと石の関係性と酷似しているのだ。
現代の作品と神話は、このように関連付けて読み解くことが可能である。いや、もっと言ってしまえば、ほとんどの物語の原型は神話に出尽くしていると言っても過言ではない。もちろん、そのことは現代の物語の価値を貶めるものではない。むしろ、いつの時代も才能豊かな作家たちによって、神話に新たな生命が吹き込まれ続けているのだと私には感じられるのだ。
100万回生きたねこは、なぜ最後に死んで生き返らなかったか
子供の頃から愛読している絵本に、佐野洋子の『100万回生きたねこ』(講談社、1977年)がある。有名な絵本なので、ご存知の方も多いだろう。
この絵本は、1匹のとらねこの繰り返すいのちを描いた話で、生と死について深く考えさせる作品である。とらねこは100万年もの間、死んではまた生きることを繰り返し、決して本当の意味では死ななかった。
ある時、とらねこは野良猫として生まれる。めすねこたちにモテモテの立派な風貌で、とらねこ自身も自分のことが大好きだった。しかし、とらねこは自分に見向きもしない白いめすねこに恋をして、いつも一緒に過ごすようになる。そして、子ねこもたくさん生まれる。とらねこは、自分のことよりも、白いねことたくさんの子ねこたちをもっと大好きになるが、子ねこたちは大きくなってどこかへ行ってしまい、ついには白いねこも死んでしまう。
とらねこは、朝になっても夜になっても泣き続け、そしてある日泣きやむと、そのまま死ぬ。絵本の最後は、「ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。」という一文で終わる。
なぜねこは、今度こそ本当に死んで生き返ることがなかったのか。その謎は、「カメのおねがい」というナイジェリアの神話で解き明かすことができる。この神話は、マーグリット・メイヨーによって子供向けに再話され、日本でも百々佑利子によって訳され『世界のはじまり』というタイトルで岩波書店から刊行されている。