明治2年(1869)5月に開業となったが、この段階では築地・横浜間のルートのみで、東京のほかの場所に馬車が乗り入れることは認めなかった。混雑している市街地に乗り入れてしまうと事故が起きやすいと懸念したからである。

築地以外への馬車乗り入れを許したのは明治4年(1871)9月のことである。認可されたのは五つの路線だったが、それだけ需要があると業者側では見込んでいた。人力車の数が激増したように、人々の間に新しい乗り物への関心が高まったことも追い風となったのだろう。

実際のところ、乗合馬車を利用する者は増えていた。それに合わせて馬車も増便され、交通量が激しくなる。人力車も馬車以上に走っており、交通量の激しさに拍車をかけた。

となれば、交通事故が増えるのは避けられない。怪我だけにとどまらず、死者まで出ていた。

江戸城門が次々撤去されることに…

交通事故が多かったのは、交通量の激しさは勿論だが、道路の状態があまりよくなかったことも大きな要因だった。急ぎ修繕する必要があったが、人と車の通る道を区別する必要もあった。道路も拡張しなければならない。

安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)

問題は財源だが、政府はその費用を車税として徴収することを決める。徴収対象は馬車、人力車、駕籠を所有している者たちであった。

道路の修繕や拡張を進める一方で、馬車などの通行を妨げるものも取り除かれた。撤去の対象には旧江戸城の城門なども含まれた。

城門は見附みつけ枡形門ますがたもんのスタイルが取られ、敵が攻め込んでも直進できないよう右折あるいは左折する構造だった。これは防御しやすいように造られた施設であり、要するに、スムーズに通行できないようになっていた。

よって、城門ごと撤去することで、スムーズな通行を可能にしたが、これにより江戸城の城門は大手門など一部を除き、次々と取り壊される。石垣のみが残され、今に至っている(『都史紀要33 東京馬車鉄道』東京都)。

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