上杉は北信濃の奪取、武田は北信濃を守ることが「目的」

ともかく、こうして川中島の戦いはこの北信濃をめぐって争われることとなったのです。

さて、ここで押さえなければならないのは、この川中島の戦いという合戦は、上杉と武田のどちらが仕掛けた戦いだったのかという点です。

すでに武田は北信濃を含む信濃のほぼ全域を制圧していました。ですからその北信濃を奪いたいと攻めにきたのは上杉謙信のほうなのです。つまり、攻める側は上杉謙信、守る側は武田信玄となります。

(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

その意味では合戦の目的も明確です。上杉謙信は国境と接している紛争地域である北信濃を手に入れたい。武田信玄は逆に北信濃を奪われないようにすればいいのです。

こうして、約10年にわたって争われた川中島の戦いは、特に永禄4(1561)年の第4回の戦いが最も激しい戦いだったとして、よく知られています。

このとき、上杉軍は謙信自ら兵を率いて善光寺平にまで出向いています。対する武田軍は、信濃と越後を流れる千曲川河畔に海津かいづ城を築き、防衛拠点としました。この海津城はのちに松代まつしろ城という名で知られ、真田さなだ10万石の城下町になります。武田勢は海津城を防衛ラインとしてまず上杉軍の進攻を食い止め、狼煙などで直ちに甲府に知らせる状態にしておきました。海津城から上杉の情報を受け取ると、信玄は全軍を率いて、海津城防衛のために北信濃へと向かいます。大枠で言えば、このようなかたちで両軍は川中島で激突したわけです。

引き分けか、上杉に分があったのか…

戦いの状況を見ると、午前は上杉軍が押しており、武田軍が劣勢だったとされます。このとき、信玄の弟で全軍の副将ともされた武田信繁のぶしげをはじめ、重臣の両角虎定もろずみとらさだなどが戦死を遂げています。他方、午後になると武田軍が盛り返し、上杉軍は春日山城への退却を余儀なくされました。

武田家の歴史を記した『甲陽軍鑑こうようぐんかん』では、午前は上杉の勝ち、午後は武田の勝ちとしています。このことから現在の歴史学では、「引き分け」と考えるのが一般的です。

あるいは、武田軍は有力武将が戦死しています。これに比べて上杉軍はめぼしい人物の戦死はありませんでした。このことをかんがみると、上杉の勝ちとは言えないまでも、上杉に分があったのではとする考えもあります。