パンダの“可愛さ”を発見したのは外国人たちだった
パンダが中国のシンボルを務めてきた歴史は、実はそれほど古くない。1930年代後半にアメリカでパンダ・ブームが発生するまで、当時の中華民国政府がパンダを自国の象徴と見なしていた形跡はない。しかし、日中戦争期の1941年、重慶の中国国民党政権が抗日宣伝の一環としてアメリカにパンダを贈る「パンダ外交」を行うと、これを契機にパンダは中国を代表し、かつ中国と他国との間の友好を演出するシンボルとなった。中国にとってパンダ外交は、外国人が勝手に発見したパンダの「可愛さ」を利用した、ある部分では「受け身」の外交戦術として生まれたのである。
そしてパンダは外国人を喜ばせる使命を帯びていくのと前後して、国内では「祖国の宝」と見なされるようになっていった。上海では1940年代初頭にパンダをチーム名に冠するソフトボールチーム(熊猫隊)が生まれ、1940年代後半にはパンダ石鹸という商標があった記録が残っている。
「祖国の宝」の性格を強めていった80年代
第二次大戦後、国民党政権は内戦に敗れて台湾に逃れ、中国大陸には1949年に中華人民共和国が成立した。その主導権を握った中国共産党は、引き続きパンダを祖国の貴重な動物と位置づけた。1950年代には北京動物園がパンダの飼育・展示を開始したほか、パンダ印の高級タバコの生産も始まった。中国政府は、1972年の米中和解、日中国交正常化の際には、アメリカと日本それぞれにパンダのペアを贈った。日本の上野動物園に来たランラン・カンカンが爆発的な人気を博したことはよく知られている。
1980年代にタケの一斉開花・枯死という自然現象が発生し、パンダの生態環境が悪化すると、中国内外でパンダ保護の呼びかけが大々的に展開された。これにより、パンダは国際社会における野生動物保護のシンボルであると同時に、中国にとっては愛国心を喚起する宝である、という性格をいっそう強めた。1990年の北京アジア競技大会以来のマスコットは、このような文脈を背負ったアイコンなのである。