目先の利益ばかりを追求した報い

この頃から、勝つためには手段を選ばない日本企業の蛮行も増えてくる。90年代中頃、台湾で多くのメーカーと交流していた私は、「日本企業は相見積もりばかりする」「見積もりだけ取って、その後は音沙汰無し、値引きの交渉材料に使われるだけだ。俺たちをバカにしている」という不評や不満をよく耳にした。

日本の家電や電子製品づくりは、次第に顧客本位ではなくなっていく。価格をつり上げるために過剰な機能を増やしたり、無理なコストダウンのために品質を落としたりするケースが目につくようになった。日本国内での売り上げが伸び悩む中、進出先の国でのマーケット開拓も試みたが、地場の後発メーカーのシンプルで安い商品に負け続けた。

ものづくりができなくなった日本のメーカーが、海外で生産した商品をブランド販売する商社のようになっていく一方、力をつけた海外企業が日本市場を席巻するようになる。日本が育てたサムスン、日本の下請け工場だった鴻海科技集団(フォックスコン・テクノロジーグループ)、そして半導体の発注先だったTSMCが、その後日本企業を凌駕し、世界的な地位を築くとは、日本の誰もが想像していなかったかもしれない。

日本の半導体ビジネスの失敗は、目先の利益だけを追求し、技術革新、設備投資を怠り、長期的戦略の無いまま日本の産業と雇用を守ってこなかった結果だと言わざるを得ない。

台湾の国策企業の一つだったTSMC

一方、台湾は、50年程前の1970年代から半導体産業の勃興を予測し、国家プロジェクトとして電子産業の検討を始めた。73年にそのためのシンクタンク「工業技術研究院(以下、ITRI)」が設立され、76年にはアメリカのRCA社と技術移転契約を締結。これをもとに77年には3インチ(75mm)ウエハー工場がITRIの中に建設され、半導体製造に成功する。この工場をITRIからスピンオフさせて、1980年5月に企業として独立したのが、現在世界第3位の半導体メーカーである聯華電子股份有限公司(UMC)だ。

TSMCの設立にもまた、台湾当局が深く関与している。UMCの成功を受けて、83年には経済部で「電子工業研究開発第3期計画」がスタート。1985年にITRIの新院長に抜擢されたのが、1948年に渡米してハーバード大学やマサチューセッツ工科大学で学び、米半導体大手テキサス・インスツルメンツやジェネラル・インストゥルメントで経験を積んだモリス・チャン(張忠謀)氏だ。チャン氏は1987年2月にTSMCを設立したが、創業時の資本額55億台湾元(約231億円)のうち48.3%は、台湾政府の行政院開発基金が出資した。つまりTSMCも、台湾政府が創った国策企業なのだ。