的確なアドバイスで幕府軍を勝利に導く
『曾我物語』や『吾妻鏡』の逸話から見えてくる政子の性格は、したたかで、嫉妬深く、直情径行といったところであろうか。あまり良い性格とはいえないが、こうした性格の人は、ピンチのときに動じないところがあるし、機転が利く。
承久の乱(1221年)勃発の時、弟・北条義時は迷っていた。
『吾妻鏡』(承久三年五月十九日条)によれば、有力武士の会議で「関東にとどまって朝廷軍を迎え討つか、京都にまで出撃していくべき」との2案が出た。
関東にとどまるべきとの意見が優勢だったようだが、義時はどちらにするか、逡巡していたのだろう。
彼は2案を携えて政子のもとに行き、意見を尋ねる。すると、政子は「上洛しなければ、官軍を討つことは難しい。速やかに出撃すべし」と的確なアドバイスをしたのだ。その助言どおりに動いた義時は朝廷軍を撃破し、幕府を安泰のものとした。
建仁3年(1203年)9月には、2代将軍・源頼家(政子の子)と比企能員の北条時政追討の密談を障子の影から立ち聞きし、すぐに父・時政に知らせるように手配したという逸話がある。これも政子の先見の明や物事に動じない性格を示すものであろう。
「尼将軍」の名もうなずける胆力
やはり、政子という女性の生涯は波瀾万丈である。
夫・頼朝は平家に対し挙兵するという大博打に出て、事は成就したものの、幕府を創設して間もなく亡くなる。
息子・頼家は将軍となるが、程なくして北条氏と対立し、政界を追われた末に殺害される(頼家の殺害にも北条氏が絡んでいたといわれる)。次男で3代将軍頼家の弟・実朝も甥の公暁によって殺されてしまう。
普通の女性なら、悲嘆に暮れて隠遁生活を送ってもおかしくない。だが、政子は政治の表舞台に立ち続けた。これは、政子が並の胆力の持ち主でないことを示していよう。「尼将軍」という称号もうなずける。残された数々の逸話からは、政子の恐ろしく、すさまじい女性の情念を感じることができる。