正社員は「いつかなれるもの」ではなくなった

磯野家や野原家が庶民ではなく「勝ち組」の既得権益者側に見える――このようなコンテクストを踏まえれば、正社員として働き大小さまざまな恩恵を享受できていることが「ふつうである」という前提を、もはや全社会的に共有することが難しくなっていることが見えてくる。つまり、同じ会社で働く非正規雇用者からすれば、正社員は「いつか自分がそうなりえる姿」ではなくて、一生交わることのない並行世界の住人にしか思えないのだ。

近頃において「無駄を省く(既得権益者の利権を削る)」といったスタンスの党派が喝采されるのも「自分はそのような粛清の刃を向けられる側の世界の住人ではないし、これからもずっとそうである」という感覚を少なくない人が共有しているからだ。

自分が踏み入れることのない並行世界の人びとだけが「おいしい思い」をしている姿を見るのは、不公平というか差別的にすら思える。「正社員/恵まれている人の待遇を削ったら、まわりまわって自分にも損がある」――というマクロ経済学的な知見に裏付けられた正論には、もはや多くの人がリアリティや説得力を感じられなくなっている。「どうせ自分はずっとこのままなのに、どうして同じような仕事をしているあいつらは(大したことをしていないなのに)給料が高いのか。それは不当だ。差別だ」という不公平感の方が優勢になる。

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「みんなで豊かになる」という物語の死

自分がけっしてその領域に足を踏み入れることはない「別世界」で暮らす人びとの待遇が引き下げられることは、自分にとってなんの痛みもないどころか、かえって社会がより「公平」に近づいて歓迎されるべき「善行」だ――とすら考えられるようになる。

「いま恵まれている人を引き下げたら、自分がその立場に行けたときに損をする。だから少しでもだれかが得する方向に働きかけよう」という、互助的な規範意識が、機能不全に陥ろうとしている。「みんなが苦しい時代に、おいしい思いをしているのは不当な既得権益者に違いないのだから、かれらにメスを入れて闇を暴き、引きずり下ろす! それが民意である!」――というスタンスを明確にする、いわゆるポピュリズム政党が市民社会からの喝采を浴びますます勢いに乗るのは偶然ではない。

この社会が「みんなで豊かになる」という社会的合意(あるいは共同幻想)を喪失してしまっていることの裏返しでもある。