頼朝や義時が武運を祈ったのは「神」ではない
その後、たび重なる火災に見舞われながら、そのたびに復興され、神仏が習合した宮寺としての伝統は、源頼義が勧請して以来、明治維新を迎えるまで800年以上守られてきた。
鶴岡八幡宮のホームページには、「武士の都、鎌倉の文化の起点」であり、「源頼朝公は鶴岡八幡宮を篤く尊敬しておりました」「鶴岡八幡宮は東国社会の精神的中心、社会的中心だったのです」と書かれている。
実際、その通りなのだが、頼朝が「篤く尊敬」し、「東国社会の精神的中心」だった鶴岡八幡宮寺は、その景観も、信仰や精神の内実も、いまある鶴岡八幡宮とは大きく異なるものだった。
今日、鶴岡八幡宮に参詣し、頼朝や義時がひたすら“神”に武運を祈っていた姿を想像するなら、それは歴史への誤解につながってしまう。
明治新政府による神仏分離が、日本の歴史や文化をいったいどれだけ破壊したか。そのことを考えるたびに胸が痛むが、150年前に起きたことをなかったことにはできない。
神仏分離の大義名分だった政教一致は、遠い過去の目標にすぎない。そもそも、いまそれを志向すれば憲法に違反してしまう。
つまり、現在は神仏を分離すべき理由はどこにもないのだから、神仏の境界が極めて曖昧だという日本の文化、そして日本の宗教のおおらかさを、少しでも取り戻せないものだろうか。それができて初めて、日本の歴史は正しく理解されると思う。