社会を私物化した新自由主義
代表者を民主的なコントロールの下に置くための新たな取り組みを行うことで、政治という共有のものの私物化を防ぐ。これだけで、代表制度の改革を終わりにはできない。異なる人びとの間に、協働の機会や枠組みを提供することも重要な任務となる。
すでに論じたように、新自由主義化した多くの民主主義国では、代表制度が機能不全に陥ることで政治の私物化が進んでいるだけではない。新自由主義によって社会が私物化されているのだ。すなわち、新自由主義は、年齢や性別、所得、民族、宗教などを異にする人びとが、ともに暮らしていくために不可欠な共有のものを市場で売り買いされる商品に貶めることで破壊し尽くした。
この結果、匿名の人たちの間の相互依存関係としてイメージされた社会は消失してしまった。それに代わって現れたのが、万人の万人に対する競争としてイメージされた社会であった。そんな社会の中で相互に反目し合い、孤立し、惨めになっていった人びとにとって、共通の問題に対する連帯や協力の余地はほぼ存在しない。
こうした現状を前にして、代表制度に接続される新たな取り組みには、蝕まれた共有のものへの働きかけが含まれるべきだ。元来、民主主義の信奉者たちが富者や権力者の支配から死守しようとしてきたのが共有のものであった。そしてその信奉者たちによれば、共有のものによって可能となるのが、民主主義の根源的な価値、すなわち、自由であった。
とするなら、細分化され、互いに反目し合う現代の人びとの間に共有のものを復活させようとする働きかけが、代表制度を民主主義の制度として再建する際に避けて通れない課題となっても何ら不思議ではない。
しかし、だからといって、利害関心や価値観、アイデンティティに関してこれほどまでに多元化した世界で、そのような働きかけが実を結びそうにないこともまた確かだ。したがって、現代世界の多元性という事実を前にした私たちにとって、共有のものへの働きかけがいかなる制約の下にあるのかを確認しておく必要がある。