寿永元年(1182)11月、頼朝は亀の前という女性を伏見広綱という武士の邸に住まわせて不倫をしていた。妻・政子には内緒にしていたのだが、政子の継母・牧の方が政子に告げ口してしまう。
これに怒った政子は、牧の方の父・牧宗親に命じて、伏見広綱の邸を襲撃・破壊させ、亀の前らに恥辱を与えたのである。広綱は亀の前を連れて、大多和義久の家に避難する。
数日後、大多和邸を訪問した頼朝は、襲撃した宗親を難詰し、彼の髻を切ってしまうのだ。これは今風に言えば、衆人環視の前でパンツを下されるような辱めである。宗親は泣きながら、邸を飛び出していったという。
「きっと将来、わが子孫を守ってくれるだろう」
ところが、ことはそれで終わらなかった。頼朝の義父・北条時政が怒ったのである。
頼朝が政子をないがしろにしたこともそうだが、牧宗親は、時政が寵愛する牧の方の父だったからだ。時政は頼朝に一言の挨拶もなしに、鎌倉から伊豆に帰ってしまう。無言の抗議である。
さすがの頼朝も慌てただろうが、取りあえずは、部下の梶原景季を呼び寄せ次のように依頼したという。
「北条義時は、穏やかな心を持っている。その父・時政は不義の恨みにより、勝手に伊豆へ下国してしまったが、義時はそれに従わないで鎌倉にいるはずだ。義時は鎌倉にいるかいないか、確かめてきてほしい」
景季は義時が鎌倉にいることを確かめ、「義時は下国しておりませんでした」と頼朝に告げる。すると、頼朝はわざわざ景季を再度、義時の邸に遣わして自らのもとに呼び寄せ「そなたはきっと将来、わが子孫を守ってくれるだろう」と褒めるのである。
それだけではなく「後で恩賞を与えよう」とまで言っている。義時は「恐縮でございます」とだけ言い退室した。
頼朝は、義時が時政に従わず鎌倉に残ったことが余程うれしかったに違いない。
なぜ義時は父についていかず鎌倉に残ったのか
人によっては、このエピソードを「義時は何もしていない。夜、家にいたら、呼びつけられて褒められただけである。むしろ、この積極性のなさが義時の人生の特徴である」(細川重男『執権』講談社、2019年)と少し辛口に解釈するむきもある。
しかし、私は「義時が何もしていない」「棚からぼた餅で頼朝のお褒めに預かった」とは思わない。父・時政に従わず、鎌倉にとどまっていたということ自体を一つの「行為」だと感じているからだ。
義時は、実父である時政よりも頼朝を優先したのだ。時政の下国を不快に感じていた頼朝は、義時を「私の心を察し、実父に従わなかった」ので褒めているのだ。さらに、忠誠心だけでなく、先を見る力と適切な行動ができるイメージを頼朝に与えたに違いない。だから「わが子孫を守ってくれるだろう」と頼朝は感じたのである。
「義時は穏やかな奴だから」という理由だけで、褒めたのではないと思う。単なる穏やかな心の武将では、いざというときの頼りにならないし、上司には愛されない。