ここからまた、鳥海の成長が加速する。翌年のアジア・オセアニア選手権では持ち前のスピード感あふれるプレーを存分に見せて、リオデジャネイロ・パラリンピック出場権獲得に貢献。

これで一気に日本代表内での評価を高め、高校3年生だった2016年8月、17歳にして初めてのパラリンピックに臨んだ。鳥海を日本代表に抜擢ばってきした及川晋平ヘッドコーチは、当時の会見で鳥海について「純粋に天才だと思う」と評している。

しかし、リオパラリンピックは天才にとって苦い思い出になった。チームは6位以上という目標を掲げながら敗戦を重ねて9位に沈み、鳥海も消化不良のまま大会を終えることになる。

「国内で通用していたプレーが通用しない。試合に出た時に、チームを勢いづけるプレーができない。なんでこんなにできないんだろうっていら立っていましたね。そういう状態のまま試合を重ねることへのメンタル的なタフさはその当時なかったし、かなりきつかったです」

海外で通用するバスケを目指して

リオパラリンピックでの失望感と脱力感からか、過去のインタビューでは一時、車いすバスケットボールから離れようとしたと明かしている。しかし、続けるべきだという家族の言葉や、翌年に23歳以下の世界選手権が控えていたこともあり、再びコートに戻ることを決意。

「バスケを続けるなら関東に行きたい」という想いがあり、2017年春、日本体育大学に進学すると同時に、ジュニア時代からともにプレーしてきた古澤拓也選手が所属する車いすバスケットボールクラブ、パラ神奈川SCに加入した。

鳥海選手のインスタグラムより
お洒落に着こなす鳥海選手

初めてのひとり暮らしで昼間は大学に通い、夜はクラブで練習という日々が始まった。練習を終えると帰宅は遅い時間になるが、朝から授業があるのでのんびり寝ていることもできない。自炊をしながら大学とパラ神奈川SCに通うのは「かなり大変だった」と振り返る。

同年6月にカナダで開催された23歳以下の世界選手権で、日本代表はベスト4に食い込む。副キャプテンを任された鳥海は、大会優秀選手のベスト5に選出された。さらに、同年10月には日本代表として中国の北京で行われた「アジアオセアニアチャンピオンシップス」に参加。3位になった日本は翌年に開催される世界選手権の切符を手に入れた。

国際大会ともなれば、大会前に合宿が組まれ、大会の期間と合わせると拘束時間はかなり長くなる。普段の練習を含めて車いすバスケットボール中心の生活を求める鳥海にとって、次第に大学との両立が難しくなっていった。そして、次の年は1年間、大学を休学することになった。

「事前に大学に相談していなかったので、バスケットの活動が忙しくなった時に、授業やレポートをどうするか、コミュニケーションが取れていませんでした。僕はバスケットをしたいのに、大学はレポートがかなり多くて。それで親や先輩に相談して、一度休学することにしたんです」