「遊園地なんて不潔だし、うんざりする」

外では、縁石を敷こうとする作業員と、配線を台無しにされたテレビ局のスタッフが怒鳴りあい、罵りあう声がますます大きくなっている。ウォルトは遊園地の建設だけでなく、かつてないスケールのテレビ番組でホストも務めることになっていた。この大々的な番組のため、ニューヨークからサンフランシスコに至るまで、全米のテレビ局から機材がかき集められた。アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)は、開園セレモニーの日まで何も放送しないというわけにはいかないので、何週間もかけてテレビ番組を撮りためていた。

〈ABC〉はディズニーのメインスポンサーだった。ウォルトは、番組を提供する代わりに資金を提供するよう、〈ABC〉側と取引していた。

〈CBS〉や〈NBC〉といった古参のテレビ局は、食指を動かさなかった。ディズニーの番組は放送したいが、遊園地産業とかかわる気はない、というわけだ。当時、遊園地の建設はリスクが大きいうえ、いかがわしい産業だという認識が広まっていたからだ。

どうして遊園地なんかつくるの? ウォルトは、妻のリリアンにたずねられたことがあった。遊園地なんて不潔だし、うんざりするじゃない、と。恐ろしく有能なビジネスマンだった兄のロイも、同じ疑問を抱いていた。「ウォルトもそのうち諦めるさ」。最初のうちは、ロイも周囲の人たちにそう言っていた。だが、ウォルトは諦めず、結局ロイも運命をともにすることにしたのだった。

芸術へ成長させたアニメーション制作にも嫌気が

ウォルトはベッドに入った。

ここまで長い道のりだった。カンザスシティの農家の息子で、家計を支えるため、夜明け前の雪道で寒さに震えながら新聞配達をしていたウォルト少年は、今やすっかり有名人になった。低俗でもの珍しいだけだったアニメーションを、ほぼ独力で高い利益を生む芸術へと成長させたのだ。それでも今は、ミズーリ州にいた少年時代と同じくらい、心もとない気分だ。

「なぜ遊園地を?」パークの足場の陰でジャーナリストに質問されたとき、ウォルトの答えはいたってシンプルだった。「この20年というもの、何か自分だけのものが欲しいと思っていたんだよ」

もちろん、理由はそれだけではない。ウォルトはアニメーションをつくるのに疲れてしまったのだ。1941年には、スタジオでストライキが起こるという苦い経験をし、第二次世界大戦が終結する頃には、ご多分に漏れず、ウォルトも不満と先行きの不安を感じていた。

大衆が求めるものを敏感にかぎ取るウォルトは、世間の人々も自分と同じ思いをしているに違いないと考えた。安らぎを得たいという、ディズニーランドのような場所を求める人々の存在に気づいたのだ。