一九四四年の頭頃から、首相経験者などのいわゆる重臣と、昭和天皇の弟である高松宮宣仁(海軍大佐)らを中心とした皇族グループによる東條英機内閣の倒閣工作が水面下で進行します。
こうした動きも、一般的には和平交渉を行うための動きととらえられていますが、実態としては戦局の挽回を目指して行われたものであったことが明らかになっています。和平の前に、まず「一撃」が必要だというのは、当時の首脳陣が等しく抱いていた考えだったのです。
「一撃和平」を諦め、ソ連を仲介とした和平交渉を模索
その後、日本は一九四四年六月のマリアナ沖海戦、七月のサイパン攻防戦にも敗れ、東條内閣では「一撃」となる戦果は挙げられず、七月十八日に内閣は総辞職します。代わって朝鮮総督の小磯國昭が首相となりますが、その小磯内閣でも「一撃」は得られませんでした。
同年十月のレイテ沖海戦で手痛い打撃を受けるなど、戦果は挙げられず、小磯内閣は発足から約八カ月の一九四五年四月に総辞職。代わって海軍出身で侍従長も務めた鈴木貫太郎が内閣を発足させますが、この鈴木内閣でも、当初は「一撃」を模索していました。
一九四五年五月、ドイツが連合国軍に無条件降伏します。そして、同年三月に始まった沖縄戦では、五月二十九日に首里城が陥落し、軍司令部が占拠されるなど、戦況は著しく悪化します。このあたりで、国家首脳部の多くは「一撃」をあきらめ、和平を模索するようになります。
しかし、六月八日の御前会議において、「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が決定されました。沖縄戦の敗北が決定的であるにもかかわらず、この御前会議では「七生尽忠ノ信念ヲ源力トシ地ノ利人ノ和ヲ以テ飽ク迄戦争ヲ完遂シ以テ国体ヲ護持シ皇土ヲ保衛シ征戦目的ノ達成ヲ期ス」と、戦争継続が強く訴えられました。
そんななか、内大臣の木戸幸一が、政府を和平交渉へ転換させようとするようになります。木戸らは戦争が圧倒的不利のまま長期化することによる、「国体」(天皇中心の国家体制)の崩壊への危機感から、こうした動きをしたと理解されています。
宮中グループに同調した海軍大臣
こうしたことから、木戸を中心とした宮中グループの政治的影響力の強さが、これまで注目されてきましたが、現在では、木戸の持つ「権限」の問題からこうした経緯が再検討され、和平交渉への転換過程における各政治主体の役割が明らかになってきています。
木戸が、天皇の権威を背景に、国家意思の決定に強い影響力を持っていたのは事実です。しかし、執行権は内閣が保持しているため、自らの意見を政策に反映させるためには、内閣との合意形成を必要としていました。