思わず盃を落としそうになった。どうやら占い師から文化人になったらしいが、テレビには興味がないから知らなかった。
歯に衣着せない毒舌で、あっという間にお茶の間のカリスマになり、その知名度を生かして講演会や、“信者”たちに墓を売りつけているという噂が流れてきた。
東西線の神楽坂の駅から下って大久保通りと交差する角に細木の事務所があった。たまには覗いて見ようかと思っていたが、今更会って話すことなどないと、行かずにいた。
細木数子の人生を追った『魔女の履歴書』
スポーツ紙やテレビはまったく触れていないが、2006年5月から、私の古巣である週刊現代でノンフィクション・ライターの溝口敦が、細木の人生を暴露する連載『細木数子 魔女の履歴書』を始めた(後に講談社+α文庫から出版。以下『魔女』)。
編集長はコワモテで知られる加藤晴之。溝口は長年暴力団を取材してきた、その道のプロである。
亡くなるまで一緒にいた堀尾昌志だけではなく、彼女の周囲には暴力団や元暴力団の人間が多くいる。
20代で一時は3つのクラブを所有していたといわれるが、そのカネはどのようにして手に入れたのか。彼女の人生を丹念に取材して、細木という女性が辿ってきた本当の人生を描こうというのである。
慌てた細木は、『魔女』によると、連載が始まってすぐに講談社の社長を相手取り、6億円余りの賠償請求訴訟を起こした。しかも、裏では暴力団最高幹部に頼んで、溝口に連載を止めるよう圧力をかけたというのだ。
そんなことで溝口が怯むはずがない。かえって彼の闘志に火をつけてしまったようだ。
その連載からいくつかのエピソードを紹介してみよう。
喫茶店、クラブ、バーと立て続けに開くが…
細木は渋谷区円山町で1938年に民政党院外団の壮士(政治ゴロといわれたそうだ)だった父親と母親の8人兄弟の4女として生まれたと、彼女の自叙伝では書いているようだが、実際は父親の愛人の子どもで、妻妾同居していたと『魔女』では指摘している。
東京・渋谷の百軒店でおでん屋を営む母親に育てられたと本人はいっている。この地域は昔は青線地帯といわれ、戦後、ワシントンハイツから多くの米兵が遊びに来て、街娼と遊ぶ町だった。
16歳でミス渋谷になったともいっているが、これは商店会の催し物のようなものだったらしい。17歳で高校を中退して、東京駅近くに喫茶店「ポニー」を開店する。
現在のカネで200万円にもなる開店資金は自分で貯めたといっているが、『魔女』によれば、かなりいかがわしいことをして稼いだそうだが、ここでは割愛する。
その後、新橋駅近くのビルに「クラブ潤」をオープン。19歳(年齢はサバを読んでいて22歳だったそうだが)で銀座のクラブ「メルバ」の雇われママになる。