ニュージーランドと対照的な日本のメディア

2019年にニュージーランド南部の都市クライストチャーチのモスクで男が銃を乱射し、100人以上が死傷するという大事件が起きた。そのとき、アーダーン首相は、議会で次のように演説した。

ニュージーランドのアーダーン首相(写真=New Zealand Government/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

「男はこのテロ行為を通じていろいろなことを手に入れようとした。そのひとつが、悪名だ。だからこそ、私は今後一切、この男の名前を口にしない。皆さんには、大勢の命を奪った男の名前ではなく、命を失った大勢の人たちの名前を語ってほしい。男はテロリストで、犯罪者で、過激派だ。そうすれば、あの男は無名のままで終わる」(出典:BBC NEWS 2019年3月19日

これに対して、名前はおろか、事件の手口、その家族の様子や容疑者の学校や職場での様子まで事細かく報じているのが日本の実情である。

そしてそれをもとに、自称「専門家」がワイドショーやネットメディアで詳細な分析を披露しても、誤った知識を広めるだけで事件の解明にはつながらない。

京王線事件の容疑者は派手な格好をして犯行に及んでおり、社会の注目を集めたかったことは容易に理解できる。だからこそ、国内のメディアが、この卑劣な事件の容疑者のゆがんだ承認欲求を満たしてやる理由はどこにもない。

容疑者が常にマスクを着けていた意味を考える

容疑者が事件直前に、ハロウィーンでにぎわう渋谷の街をうろつく様子を防犯カメラがとらえていた。そして、事件の後に列車中で警察に囲まれている容疑者の姿もカメラがとらえていた。これを見て私が不思議に思ったのは、いずれの場面でも容疑者がきちんとマスクを着用していたことだ。

特に、これから無差別殺傷事件を起こそうという容疑者が、律儀にマスクをして渋谷の街を歩いている様子は奇妙だとしか言いようがない。

つい先日、この事件に関してある外国のメディアの取材を受けたとき、海外で無差別殺傷事件が起きた場合は、犯人はものすごい攻撃性を見せ、多くの人を死に至らしめた後、警察官にも襲い掛かり、最後は自殺を遂げるケースが多いのに、京王線事件の容疑者は事件のあと、なぜあんな落ち着き払ったような態度なのかと質問を受けた。

たしかにこれは興味深い指摘である。電車という密室を選んでおきながら、逃げ惑う人々を追いかけてさらに凶行に及ぶことがなかったのは、不幸中の幸いであった。また、先述したように、自殺のそぶりも見せておらず、警察官にも一見従順にマスクをして対応している様子であった。このような行動は、彼がまだ一片の社会性を有していることの表れなのかもしれない。