意中の人は「死神」だった

だが、充実した日々は長くは続かなかった。認められ始めた矢先の翌大正13年4月に、西条八十が渡仏してしまい、変わって『童話』の選者になった吉江孤雁は、みすゞの作品を評価しなかった。他誌に投稿したり、童話を書こうとしたり、悩み迷う時期が続いたようだ。

同時に、私生活でも意に染まぬ結婚話が進められていた。義父は、テルを商才のある男と結婚させて、家業を継がせようと考えた。ちょうどこの頃、上山文英堂に入社した宮本啓喜という男がいた。啓喜は、熊本の果実シロップ製造会社の長男だった。儲けを女につぎ込み、心中事件まで起こし、相手は死んだが自分はためらって生き残り、それで父親に勘当されて熊本を出て職を探していたのだ。松蔵は、仕入れの忙繁期になると安定所から人を雇い、暇になるとささいなことを理由にクビにするという男だった。次々と社員がクビになるなかで、啓喜が残っていたところを見ると、松蔵にとり「見どころのある社員」だったのだろう。

しかし松蔵は、はたして“義父”として、テルの幸福を考えていた面があっただろうか? 親として娘の幸福を願うのなら、それにふさわしい男性を選ぼうとするはずだ。啓喜は親にとって不安なタイプの男だ。心中事件の影が、一種の危険な魅力となったか、甘い雰囲気の顔立ちのせいか、女にもてたらしい。もてても応じるかどうかは本人の理性とけじめの問題だが、啓喜はけじめのないタイプで、派手に女遊びをしていた。

ともかくテルと啓喜の結婚話は進んでいった。恋愛、結婚について、テル自身はどう考えていたのだろう?

この結婚に疑問を抱いた弟の正祐は「好きな人がいるなら無理してこの結婚を受け入れなくてもいい」と話した。テルは「好きな人がいる」、そして、「その人は黒い着物を着て、長い鎌を持っているのよ」と答えた。死神のイメージだ。

この頃テル22歳。何がこの若い女性の胸に、こんな暗い諦めの結婚のイメージを抱かせていたのか?

天才詩人としてスタートしたのに、その後のままならない状況がテルの心を暗くしていたのか?

大正15年2月、23歳になろうとする頃にテルは啓喜と結婚した。

3月には、支えだった西条八十が帰国する。テルは童謡詩人会に入り、7月発行の『日本童謡集』に「大漁」と「お魚」が掲載された。そしてその年の11月、長女ふさえが生まれる。

啓喜の女性に関するだらしなさは、結婚後も相変わらずだったが、テルがそのことで周囲の人に不満を口にすることはなかった。というより、テルは一生を通じておよそ人の悪口というものを口にしなかった。誰もテルが人を悪しざまに言ったり、愚痴をこぼしたりするのを聞いたことがないという。

      海のお宮
   ――おはなしのうたの四――


   海のお宮は琅●(ろうかん)づくり、(※王の右に干)
   月夜のやうな青(あアを)いお宮、
   青いお宮で乙姫さんは、
   けふも一日、海みてゐます。
   いつか、いつかと、海みてゐます。


   いつまで見ても、
   浦島さんは、
   陸へかへつた
   浦島さんは――


   海のおくにの静かな昼を、
   うごくは紅い海くさばかり、
   うすむらさきのその影ばかり。


   百年たつても、乙姫さんは
   いつか、いつかと、海みてゐます。

言葉は「みすゞ」であるテルにとって生命そのものだった。言葉の重みを知っているからこそ、「悪い言葉」を口にすることを拒否したいという姿勢があったのだろう。また、みすゞの作品の最大の魅力の一つである弱い者、理解されにくいもの、無視されるものへの、優しくきめ細やかな視線は、夫にも注がれていたからだろう。しかし夫は、テルの生きるあかしともいうべき「みすゞ」の世界まで踏込んできた。妻が外の世界とふれあうことを好かなかったのか、「文学少女」の香りを否定したかったのか、テルに「今後一切詩作をするな」と命令する。

童謡仲間との文通、投稿、それらの住所はテルの勤め先の文英堂書店になっている。夫に内緒で詩の世界とのつながりを保ち続けようとしていた。何も悪いことはしていないのに、なぜこそこそとしなければいけないのか? 夫の悪口は言わないテルだったが、童謡詩仲間の島田忠夫との文通の中でわずかに不満らしきものを述べている。詩作と文通を禁じる夫を「放蕩無頼の人」と表現している。