研究が続けられればそれでいい
やむなくテンプル大学を辞したカリコ氏を救ってくれたのは、日本の防衛医科大学校のような組織の病理学科だった。B型肝炎の治療に必要なインターフェロン・シグナルの研究をはじめ、ここで1年間、分子生物学の最新技術など多くのことを学んだ。
その後、1989年、ペンシルベニア大学の医学部に移籍し、心臓外科医エリオット・バーナサンのもとで働くことになった。この時の彼女のポジションは、研究助教で、非正規雇用の不安定な立場だった。そのうえ、もらえるはずだった助成金ももらえなかった。
「決して条件のいい移籍じゃなかったわ。翌1990年の私の年俸は4万ドル(当時のレートでは、日本円で約640万円)。20年経っても、6万ドル程度でした」
「だから、娘には、『あなたが進学するには、ペンシルベニア大学に行ってもらうしかない』と言ったのよ。なぜって、教員の子どもは学費が75%引きになるから」(カリコ氏)。研究が続けられれば、それでいい。カリコ氏の考え方は一貫している。
「自分のやっている研究は、とても重要なことなんだと信じていました。たとえどんなことがあっても『人の命がかかっている、とても大事なこと』と思っていたのです」
「できるはずない」とバカにされ続けた研究に成功
そもそもカリコ氏がmRNAに興味をもったきっかけは、ハンガリー時代にさかのぼる。博士課程の担当教官から、RNAの存在と量などを明らかにするためのシーケンシング(遺伝子の正確な配列を調べること)を依頼するために、アメリカ・ニュージャージー州にある研究室に生体サンプルを送ってくれと頼まれたことだった。カリコ氏はこの種のRNAが薬として使用できるかもしれない、という可能性にひかれたのだ。
カリコ氏はペンシルベニア大学のバーナサン氏のチームで、mRNAを細胞に挿入して新しいタンパク質を生成させようとしていた。実験のひとつは、タンパク質分解酵素のウロキナーゼを作らせようとしたこと。もし、成功すれば、放射性物質である新しいタンパク質は受容体に引き寄せられる。放射性物質の有無を測定することで、特定のmRNAから狙ったタンパク質を作り、そのタンパク質が機能を有するか評価できるのだ。
「ほとんどの人はわれわれを馬鹿にした」(バーナサン氏)
ある日、長い廊下の端においてあるドットマトリックスのプリンターをふたりの科学者が食い入るように見つめていた。放射線が測定できるガンマカウンターの結果が、プリンターから吐き出される。
結果は……その細胞が作るはずのない、新しいタンパク質が作られていた。
つまり、mRNAを使えば、いかなるタンパク質をも作らせることができる、ということを意味していたのだ。