※本稿は、増田ユリヤ『世界を救うmRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
RNAの研究室でのカリコ氏の任務
セゲド大学に5年間在籍し、修士課程までおさめたカリコ氏は、1978年、ハンガリー科学アカデミーから奨学金を得て、博士課程としてハンガリー科学アカデミーセゲド生物学研究所の研究室に所属した。それが「RNA研究室」だった。
ちょうどこのころ、世界的に分子生物学が生命科学の分野で主要な位置を占めるようになり、RNAを研究することは、当時の学問の世界基準を究めていくことに等しいものとなっていた。とはいえ、現在のカリコ氏が研究を究めたmRNAは、この当時は存在は明らかになっていたものの、合成することは非常に困難だった。というのも、DNAに書かれたタンパク質の遺伝情報をmRNAに転写する際に必要なRNAポリメラーゼ(酵素)が、精製できていなかったからだ。
そのため、70年代の後半の段階では、3〜4つのヌクレオチド(RNAを構成する分子の結合体)からできた、とても短いRNAフラグメント(断片)しか作ることができなかった。カリコ氏の任務は、このRNAフラグメントの抗ウイルス効果を調べることだった。抗ウイルス剤の調査は、製薬会社にとって関心の高い重要分野のひとつだった。
そのため、このプロジェクトには、キノイン(ハンガリーの製薬会社。1991年、フランスのサノフィに買収される)が資金援助をしてくれた。カリコ氏は仲間の研究者とともに、抗ウイルス効果のあるRNAフラグメントを合成して生成し、それを細胞に送り込む方法を見出すという任務を与えられた。当時の実験条件下では、電子穿孔法でのみRNAフラグメントを細胞内に入れることができた。しかし、それは人間に適用できるものではなかった。思わしい研究結果が出せなかったため、資金援助は間もなく打ち切られた。
しかし、カリコ氏がこの研究室でウイルス関連の研究をし、初めて修飾ヌクレオチドを使用したことは、重要なことだった。
研究費の打ち切り、景気の後退…新天地アメリカへ
これらの研究と同時進行で、カリコ氏は生物学研究所でも、多くの研究プロジェクトに参加するようになった。しかし1980年代に入ると、ハンガリー全体が景気の後退、停滞に陥り、それに伴って、研究活動が進められなくなっていった(ハンガリー・中央統計局資料による)。そのため、研究グループは解散せざるをえなくなった。海外に渡って研究を続けようという仲間たちも多く、カリコ氏自身も「このままでは終われない」と思い悩んだ。結局、セゲド生物学研究所の生物物理学研究室で得られた専門的な経験を強みに、1985年、カリコ氏はアメリカのペンシルべニア州フィラデルフィアに家族で移住して、研究活動を続けた。そこで続けた研究は、セゲドで研究したテーマと関連するものであった。