乳がんになった母の付き添いをほぼすべて引き受けた
そしてもう1つの事件は、母の乳がんが発覚したことでした。受験も直前となった11月のこと、いますぐ帰れと呼び出されて帰宅すると、父と母が泣いており、嫌な予感が止まらなかったのを、今でも鮮明に覚えています。
母のがんはかなり進行していたようで、すぐに入院、手術となりました。付添人として、本来なら父がいるべきだったのでしょうが、父は文字通り仕事に忙殺されており、全く身動きが取れない状況でした。
なお、僕は、父を冷たいとは思っていません。貯金もなく、誰かが働いて金を稼がなくてはいけない状況だったのですから、家長として当然の判断でしょう。むしろ、僕と分担しつつでも、家事を手伝ってくれたことを本当に尊敬しますし、感謝しています。
とはいえ、誰かが母に付き添わなくてはいけません。なので、僕が受験勉強の合間を縫って、母の入退院の送り迎えや、手術の際の付き添いなどなど、ほとんどすべてを引き受けました。
当時、母は抗がん剤の副作用で全く体が動かず、横断歩道をひとつ渡るのにも5分も10分もかかるほどでした。そんな母の姿を見て、僕も不安でしたが、それ以上に母自身が不安だと思い、それを口にすることはしませんでした。
さて、元々の勉強が足りていなかったこともあり、東京大学には落ちるべくして落ちました。しかし、自分が、着実に前に進んでいることは確かでした。高校3年生の夏の東大模試では80点満点で3点しか取れなかった数学が、本番では40点近くとれるようになっていたのです。
受験勉強しながら週3日、1日8時間アルバイト
東大は、おせっかいなことに、不合格者に対して「あなたは不合格者の中で何位くらいですよ」というランクを発表してくれます。僕はちょうど真ん中くらいのCでした。
これは、「僕の上には不合格者が200人ちょっといるが、同時に僕の下にも200人ちょっとがいる」ということを指しています。もともとはランキング圏外にいたであろう僕が、あとたった200人を抜かすだけで東大に入れるところに来たという事実は、東大に落ちて打ちひしがれていた僕を勇気づけるには十分でした。
そこで、親に頼み込み、浪人させてもらいました。両親は方々に頭を下げてまわり、消費者金融から借金も重ね、どうにか僕の予備校費用を集めてくれました。本来ならそんなお金なんてなかったのにわざわざ借金までして資金を集めたのは、「十分東大に受かる可能性がある」と僕を信用してくれたのでしょう。
しかしながら、予備校までの定期代や、日々のお昼のお金などはもちろん自腹でした。ですから、週に3日間、駅前のドラッグストアでアルバイトをしながら勉強することになりました。お金が稼げないと意味がないので、普通に1日8時間くらいは働いていました。