現代は「する」に価値を置く社会になりすぎている

【石川】なるほど。それは、まさに「するための食事・運動」と「いるための食事・運動」の違いかもしれません。

僕たちは、「するための運動・食事」には「因果」を求めます。「健康になるため」や「痩せるため」といった目的があって、その目的に最適なものが欲しいと考える。すると、損をしたくないという発想になりやすい。

一方で、「いるための運動・食事」は「因縁」に近くて、その考え方だとご縁ベースで目的も結果もどんどん変わっていくんです。佐渡島くんにとってジョギングは「いるための運動」だったので、スムーズに走れないことに目を向けず、「碁盤の目を楽しむ」という新しいご縁に意識をむけられたのではないでしょうか。

【佐渡島】そうなんですよね。僕は、札幌の碁盤の目と京都の碁盤の目の差はなんだろうと考えて楽しんでました。

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「いる」であろうとすることが、「する」を全て否定するわけではない。でも、現代は「する」に価値をおく社会になりすぎていると感じます。「目標をしっかり持とう」「wantを持とう」と聞くたびに僕は、夢やwantを持つ行為そのものが人間にとって不自然な状態なのではないか、と思ってしまう。

「短期的な最適解」と「中長期的な最適解」は異なる

【佐渡島】その行為の反対にあるのが、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というリクルートの旧・社訓です。この言葉を「機会は自分が作るが、その機会を使って何を成し遂げるかはわからない」と解釈すると、とても奥深い。すごく中動態(※能動態でも受動態でもない概念。「fall in love」のような、インド・ヨーロッパ語族の態のひとつ)的で素敵だなと感じます。

もっと中動態的な状態を観察する力を、社会全体が手に入れることが、Well-Beingにつながっていくんじゃないかと思うんです。

【石川】短期的な最適解は、理屈にあった「因果」のほうが捉えやすいものです。だから、分かりやすく「する」を明確にした目標を持つことを推奨するのでしょう。

しかし、中長期の最適解は短期的な最適解とは異なります。僕自身は、中長期的な最適解を導くには、理屈では捉えられない「因縁」で考えるしかないと思っています。

【佐渡島】なるほど。因果と因縁について考える際、僕はギリシャ神話を連想します。ギリシャ神話の神々は決して道徳的ではなく、欲望のままに「いる」ことが表現されている。それが、中動態的なものが認められていたということなのではないかと思います。