あきらめとは違う、「当たり前」という受け流し方

社会は、さまざまな欲望を持った人間の集合体です。社会そのものが生き物だといっていいかもしれません。ですから、自分一人の欲望、自分の都合などがまかり通るはずがない。それが、当たり前です。

私たちの社会の、「欲望という電車」が走り回る路線図を冷静に見れば、私以外の線路と交差し、また、ほかの「ご都合」路線が乗り入れている、そういったことがよく分かると思います。

その交差する線路の至るところで黄色の信号が点滅していることも分かるはずです。普段のあなたは、その黄色の信号を見て、早く青信号に変われよ、とイライラしたり、怒ったりしているのではないでしょうか。

でも、ちょっと待ってください。その黄色の信号は、本当はあなたに何を知らせているのでしょうか。それは、自分の欲望、自分の都合だけで動くのではなく、「相手のことを考える時間を持ちなさい」という注意信号なのではありませんか。

私たちは「当たり前だ」ということについては、腹を立てない、怒りの感情が起きません。これは、あきらめとはちょっと違います。納得のひとつの形といってもいいかもしれません。

こういう状況ならば、こうなるのは「当たり前だ」。あの人がこんなことを言うのも「当たり前だ」。こうなれば、心も穏やかになるし、楽に生きられると思いますよ。

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「怒り」は煩悩の原材料

仏教では「怒らないこと」をひとつの徳目、良いこととしています。私自身の経験からいえば、「怒らないこと」よりも、「怒りたくなる対象」、つまり、自分自身の「怒りのツボ」を知っておくほうが大切ではないかと思っています。自分が何に対して、あるいはどういうことに対して「怒りやすいのか」、自覚しておこうというわけです。

仏教で「怒ってはいけませんよ」というのは、その根本に「ものごとを自分の都合通りにしたい」というわがままが潜んでいるという認識があるからなんです。

さらにいけないのは、「怒り」(仏教ではしんといいます)で、さまざまにやっかいな局面を招いてしまいます。そして、そのやっかいな局面は、いわゆる「煩悩」、つまり人の心を乱す感情を生み出してしまうのです。

では、怒りから生み出される煩悩とはどういうものかといえば、欲望のままに行動する「放逸ほういつ」、心の集中を失う「散乱」、危害を加えようとする「忿ふん」、人の弱点を攻撃する「悩」、相手を傷つける「害」などなど、書いていてもイヤになるほど。

「怒り」は人間にとっての諸悪の根源ですが、一方で、「怒り」は人間の根源的な感情の働きでもありますから、これを抑えたり、捨て去ったりするのは至難の業だということも確かなのです。