「3DKのプリンセス」紀子さま

昭和天皇の喪中という暗い時期に、皇太子の弟が結婚するというニュースは、当時、非常に明るい話題として受け入れられていたように思う。紀子さまが、基本的にはノーメークにも見えるような装いであるとか、実家の川島家にはテレビがないとか、職員宿舎に住んでいらっしゃるとかいうことが、バブルの狂乱の時代のなかでとても新鮮に映った。「キャンパスの恋」で出現した、若く清楚な女性に皆は色めき立ち、「紀子さまスマイル」は皆を虜にした。

戦後、美智子さまが初めて「平民」から皇室に入り、「開かれた皇室」のシンボルとなった。しかし、軽井沢での「テニスコートの恋」は、庶民の生活からはかけ離れた、仰ぎ見るようなものであったし、美智子さまは平民といえども、立派な社長令嬢であった。

それに比較すれば、「3DKのプリンセス」と呼ばれた紀子さまは、本当に私たちと地続きの、庶民と皇室を結ぶ絆だったといえよう。

そうしたなかで、若い夫婦の結婚や子育てのニュースは、テレビや週刊誌をにぎわした。2003年ごろの雅子さまのご静養以降、女性週刊誌の巻頭の皇室ニュースはめっきり減ったが、雅子さまのご結婚までは、女性週刊誌の巻頭は、美智子さまと秋篠宮家の話題で占められていた。当時の皇太子の結婚がなかなか決まらないのは、「紀子さまが完璧すぎるからだ」という報道すらあったと記憶している。

「外務省勤務のキャリアウーマン」雅子さま

難航した「皇太子妃選び」が雅子さまで決着がついたとき、国民からは「こんなすごい人が」とため息が漏れた。皇太子妃の条件として、容姿端麗、皇太子より身長は低いこと、皇太子妃に上司がいるのは不適切であるから就労経験はないこと、外国語が堪能で、楽器が得意で、もちろん親族にも問題のない人、等というものがあった。雅子さまは、外交官だった父親の転勤についていき、海外暮らしも長い。アメリカの名門ハーバード大学を卒業し、東大に学士入学し、英語を初めとする外国語を何か国語も使いこなしている。「こんなすばらしい人が皇太子妃に」と国民は熱狂した。

さらに雅子さまは、外務省に勤務しており、その時点では皇太子妃候補の条件からは外れていたバリバリのキャリアウーマンだった。「雅子さまが皇室に入るのはもったいない、いや、雅子さまなら伝統を変えてくれるのだ」という議論が白熱した。紀子さまに代わって、今度は雅子さまが、皇室における「新しい女性」の象徴となったのである。

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アメリカ・ボストンにあるハーバード大学の図書館