宗一郎が好んだ意外なゴルフコース

宗一郎がゴルフを始めたのは、還暦を過ぎてからであった。

場所は、埼玉県の荒川の河川敷上にあったゴルフ場である。現在はなくなってしまったが、当時はプレー代が安くて都心からも近いと人気があった。宗一郎はそこの正会員で、ロッカーにも「本田宗一郎」の名札を掲げていた。

しかし、他の会員たちは、その「本田宗一郎」があの「本田宗一郎」であるとは気づかなかったという。まさか河川敷でプレーするとは思わなかったのだ。この頃、宗一郎は埼玉の事業所を仕事の本拠地にしていた。そのゴルフ場は事業所から近いうえにプレー代が安くていいと、時には社員たちを連れて、ゴルフを楽しんだ。

宗一郎なら、日本、いや世界中のどんなゴルフ場の会員にもなれたことだろう。それを便利だからと、荒川のゴルフ場を選ぶところがいかにも宗一郎らしい。

日本画にも表れる宗一郎の性格

宗一郎は現役時代から、日本画をたしなんでいた。作品が公表されることはほとんどなかったが、毎年の年賀状はその年の干支を描いた自作の絵が印刷されていた。

骨太のタッチながら、筆遣いが繊細で、経営者としての磊落らいらくぶりと、技術者としての慎重さの両面が現れていたという。ある時、親友のソニーの創設者、井深大が宗一郎に言った。

「本田さんの絵ねぇ、息づまるぐらいに正確だねぇ、犬の絵なんか、毛の一本一本の数まで数えて描いたんじゃないの」
「よお、気がついてくれたの。そうなんだよ。あの犬ね、オレの家に長くいた老犬なんだ。人間が勝手にアイツの姿をゆがめて描いちゃかわいそうなんだ。それでオレ、毛の数まで正確に描いてやったんです」(『本田宗一郎 思うままに生きろ』梶原一明)

本人の遺志で大々的な社葬は行われなかった

平成三年八月五日、午前十時四十三分、宗一郎は、お茶の水にある順天堂大学医学部附属順天堂医院で逝去した。八十四歳。入院からわずか十五日だった。

福田和也『世界大富豪列伝 20-21世紀篇』(草思社)

直接の死因となった肝不全は、かなり前からの持病だった。

宗一郎が亡くなった夜の本田邸はひっそりしていた。「ホンダ」関係者の出入りは一切ない。さち夫人、長男の博俊さんと近親者が、花に囲まれた遺影の前で、故人の思い出を語り合うだけであった。宗一郎は無宗教、無信仰であったため、読経もなければ、戒名もない。しかも社葬は行わないという。

「ホンダ」ほどの大企業の創業者の死で社葬を行わないのは、めずらしいことであった。全ては宗一郎の遺志だった。

昭和六十三年十二月に藤沢武夫が亡くなった時は、宗一郎が葬儀委員長となり、東京・芝の増上寺で盛大な社葬を行っていた。おさまりきらない社員の提案で、完全無宗教の「お礼の会」が、東京・青山の本社、全国の主要工場などで、九月五日から四日間、開かれた。

オートバイから自動車、ヨット、ゴルフ、芸者遊びに尺八、日本画と、宗一郎は公私にわたり、ありとあらゆる道楽を重ねてきた。蕩尽という行為をここまで追求できたこと自体が、本田宗一郎の真面目であろう。

関連記事
【第1回】「日本で一番、金の遣い方が巧い人物」経営の神様・松下幸之助が最晩年までこだわった"ある構想"
会議で重箱の隅つつく「めんどくさい人」を一発で黙らせる天才的な質問
「お金が貯まらない人の玄関先でよく見かける」1億円貯まる人は絶対に置かない"あるもの"
「生産台数は1億台」ホンダのスーパーカブが世界一売れたバイクになった"本当の理由"
「だから学歴は問わない」ソニーの創業者が採用面接で必ず投げかけていた"ある質問"