持ち込み食があふれる病室で「食べれるっていいなー」
次の語りは、HCU(高度治療室)に勤める若手看護師が、初めて看取りを経験した場面を語ったものである。私のゼミ生だった岡部まやさんの修士論文から引用する(「急性期領域の若手看護師がもつ死生観に関する現象学的考察」、〔…〕は中略を表す)。
「どこそこのプリンが食べたいんよー」っていう話とか。「生ものなんやけど、お寿司が食べたくってー」っていう話とかしてて、『病院でお寿司かあ』って思ったんですけど。先生にいったら、「こっそりやったらええんちゃう」みたいな話になって。ははは。
「家族さんに自己責任で持ってきてもらいねー」って感じで、結局、次の日かなんかに食べてはったみたいで。「何飲んでもいいの」っていわれたって言ってて、部屋にDCM〔拡張型心筋症〕の人にはありえないぐらい持ち込み食がぶわーって置いてあって。本人もそれがすごい満足してて。「食べたいもん食べれたー、食べれるっていいなあー」みたいな。
〈小さな願い〉と悪化リスクとの天秤
食べることは「〈からだ〉とは何か」という問いに直結する。一連の食べる動作や、美味しいという感覚、それらすべてが本人にとっての〈からだ〉となる。それゆえ、「大好きなお寿司を食べて満足する」というようなことが、病気による衰弱と医療による制限のなかで失われかけた自分の〈からだ〉を回復する出来事となる。
末期の心臓病で厳格な食事制限を強いられている最中に、プリンや寿司が食べたいという願い事をされたとき、どうするべきか医療者なら悩むだろう。病気を悪化させるリスクだけでなく、衛生管理の問題などもあるかもしれない。つまり、この場合には食べることが医療と対立している。ケアが医療と乖離するケースだ。
しかし、医師も「食べたい」という願いの重要性を経験上理解している。その願いが叶うことで、本人は「食べたいもん食べれたー、食べれるっていいなあー」と大きな満足を得る。
この「満足」というのは、〈からだ〉を再発見する出来事でもある。本人にとっても家族にとっても、人生の最期に悔いを残さないための大事な経験であろう。一見すると些細なことだけれども、こうした願いの充足は生活上の大きな意味を持つ。
もしも「食事制限があるからだめ」「安全を確保できないからだめ」と言って、ルール優先で切り捨ててしまったとしたら、本人にとって大事な願いが叶えられないままになってしまい、当事者が置き去りになったまま亡くなってしまうことになるだろう。