家族に見守られながらの「お食い締め」

「お食い締め」という実践がある。人生の最期にさしかかって、自由にものを食べることがついに難しくなってきたとき、家族に見守られながら、本人がとりわけ食べたいものを食べるという行為だ。先のお寿司の例もその一種といえるだろう。

お食い締めを実践してきた言語聴覚士である牧野日和の本から、もうひとつ例を引く(牧野日和『最期まで口から食べるために2』、52頁、〔…〕は中略を表す)。

裕子ちゃんは小学3年生のときに神経難病にかかり、胃ろうを造設し禁食になりました。裕子ちゃんは食べたいと訴えましたが、お母さんは「元気になったら食べようね」とごまかしました。そして、裕子ちゃんはみるみるうちに身体機能が低下。胃ろうのまま約2年間過ごしました。〔…〕裕子ちゃんの身体はやせ細り、全身の筋力が衰え、ぐったりとしています。余命1カ月となり、お母さんは焦りました。「また食べようね」とごまかしたことを罪悪感として背負い続けてきたからです。お母さんは訪れた私に、なんとかして最期に口から食べさせてあげたいと懇願しました。

余命1カ月の娘は奇跡的に生気を取り戻した

裕子ちゃんの「食べたい」という願いは医療的な判断によって妨げられてきた。だが、死が近づいてきたとき、そのことに母親は「罪悪感」を感じる。それゆえ、願いを叶えたいと懇願する。母親の懇願は、子どもが食に対して抱いた〈小さな願い〉が、本質的な重要性を持つとう直感(確信)に由来するのだろう。

誤嚥性肺炎のリスクがある際には、通常はタンパク質を食べることは避ける。「すぐに命を落とすかもしれません」と牧野は母親に告げた。しかし、主治医は母親の熱望に背中を押され、母親が食べさせたいと願った手料理のプリンを食べさせることに決める。続く場面を引用する(同、55頁)。

プリン
写真=iStock.com/Bartosz Luczak
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二口めのプリンも一口め同様、のどの奥にゆっくりと落ちていくのが見えました。しかし、すぐには嚥下反射が起きません。「誤嚥したのでは!」と危惧した瞬間です。裕子ちゃんののどがゴクンと反応しました。様子を見守っていたお母さんは、「食べた、食べた!」と言って号泣しました。そして、「裕子もありがとうって言ってます」と言うのです。その言葉で私は裕子ちゃんを見て、魂が震えました。なんと、無反応、無表情だった裕子ちゃんの頬を大粒の涙が大量に流れていたのです。母の言うように裕子ちゃんは食べたかったのです。