すれ違ってきた親子をつなげた手づくりのプリン
プリンを食べたことで「無反応、無表情だった裕子ちゃんの頬を大粒の涙が大量に流れて」、失いかけていた生気を裕子ちゃんは取り戻す。生気とは〈からだ〉そのものだ。このあと裕子ちゃんは主治医の予想を遥かに超えて10カ月間生きた。「食べる」という〈からだ〉の基本的な快と願いが、生を支えた。
こうした実例は、統計的なエビデンスとは異なる次元で重要な意味を持つ。むしろ、内側から感じられる体感であるがゆえに、その重要性は客観的なデータには現れにくく、個別のライフストーリーを通して見えてくる。
ここでは、母がつくったプリンを食べるという経験は取り替えようのない個別性を持つ。誤嚥性肺炎のリスクを冒してまで、母がプリンにこだわったことには理由があっただろう。裕子ちゃんの人生と母親との関係全体に関わる何かが背景にある。母親がつくったプリンは、裕子ちゃんが元気だったころの好物だったのかもしれない。〈小さな願い〉は、個別的なものであり、それゆえ必然的に人生のストーリー全体を背負う。
大事なことは、食べたいという裕子ちゃんの願いが叶ったことだけではない。願いを叶えることで、齟齬が生まれていた親子がもう一度つながり合ったということも大きな意味を持つ。本当に裕子ちゃんが「ありがとう」と言おうとしたのかどうか、それはわからない。しかし、涙を流すという応答は、母親によって感謝として受け取られた。このとき、〈出会いの場〉が開かれたといえる。
本当の気持ちをごまかし、避け続けるなかですれ違ってきた母娘が、願いを叶えることにより、コミュニケーションを取りなおしている。食べ物という〈小さな願い〉は、実は親子関係全体の焦点であったのだ。〈からだ〉の肯定が〈出会いの場〉を開き、親子関係を再編成したのである。