他校がやらない練習を取り入れ、「勝てる」環境を整えた

「外の目」を持ち帰った栽監督の指導方法は、仲里さんら生徒たちに鮮烈な印象を残している。

「県内のライバル校が絶対に取り組んでいない練習をして、ミーティングでは他校の選手が絶対に聞いたこともないような訓示が並ぶ。それが優越感になって、負けられないという意識に変わった」と仲里さんは振り返る。

古典や文学、哲学、芸術、心理学、医学などあらゆるジャンルの書物に触れて知識欲にあふれていたという栽監督。企業や他のスポーツ界との人脈も豊富。さまざまな業界の一流の人の考え方に関心を持ち、見聞きしたことを部員とのミーティングでよく話題にしたという。

沖縄の中だけで戦うのではない。さらに上の世界を見せ、そこに到達するために必要な練習アイデアを次々と取り入れた。「勝てる」環境を整えることに、一心不乱だった。

技術にはほとんど口を出さなかった理由

実は、栽監督に野球の技術を教えてもらったという教え子は、少ない。

「栽先生から教えてもらったのは『フリーアーム』、それだけ。腕は自由だって。練習メニューは自分で考えてやっていました」

元プロ野球・中日ドラゴンズ投手で、沖縄水産高校の元エース上原晃さん(52)はあっさりこう答えた。140キロ超の速球を投げ、栽監督の熱烈なスカウトを受けて沖水に入学した。「全国をとりたい、お前の力を借りたい」という電話の声が今でも耳に残っているという。

沖縄水産高校での活躍が評価され、中日ドラゴンズから3位指名を受けプロ入りした上原晃さん。1年目から1軍で活躍したが、右手の不調が長引き29歳で引退。現在は愛知県内で整体師として働いている=7月1日、名古屋市内(筆者撮影)

「こっちはエースだから、自覚と責任しかない。自分が勝って引っ張ればチームのためになるという考え方でした」

沖縄を「日本一」に導けるかもしれない期待の“逸材”であることを、本人も強く意識していた。1985年に1年生で甲子園に出場して以来、3年間で春夏合わせて計4回の大舞台に登板している。栽監督は自宅を寮にして上原さんを住まわせ、先輩後輩との人間関係に悩むことがないよう、生活面を気遣うほどだった。だが、フォームや体の使い方を修正したり、型にはめたりするようなことは、一切なかった。

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1987年夏の甲子園。試合前に栽監督と言葉を交わす上原晃さん(左)

あくまで、素のままの、天性の身体能力を生かしたい。栽監督はひたすら、“場づくり”、雰囲気づくりに徹した。部員には、試合に向き合う時の考え方を説き、当時では珍しかったイメージトレーニングや瞑想なども取り入れながら、持てる力をいかに引き出せるか工夫を重ねた。