県勢初、2年連続甲子園準優勝に導いた「栽野球」

栽弘義さいひろよし監督(1941-2007)。

小禄おろく高校、豊見城とみしろ高校での監督経験を経て、沖縄水産高校を県勢初の2年連続甲子園準優勝へ導いた。沖縄の高校野球は、この人の手によって道筋がつけられたと言っても過言ではない。2007年に65歳で亡くなって14年が経つが、その影響力と存在感はいまだ絶大だ。

撮影=吉見万喜子
インタビューを受ける沖縄水産高校の栽弘義監督(当時)

「飲めばいつだって栽の話になる。勉強する姿勢、勝負に対する執着心では群を抜いていた。野球の監督であり、経営者でもあった。一流になればなるほど風当たりが強くなりますから。暴風に耐えられる男だったんだと、今でもそう思いますよ」

栽監督との思い出を語る九州共立大野球部前監督の仲里清さん。福岡六大学リーグ優勝36回、全日本大学選手権16回、明治神宮大会6回出場。99年の明治神宮大会で九州勢として初の大学日本一に輝いた=6月30日、九州共立大(筆者撮影)

九州共立大学野球部で監督を務めた仲里清さん(66)はこう語る。1971年、豊見城高校野球部2年のとき、赴任してきたばかりの当時29歳だった栽監督から猛烈指導を受けた教え子の一人だ。「栽のことを一番分かっているのはオレだ」と言って譲らない。

高校卒業後は栽監督の出身校でもある中京大学(名古屋)へ進学、同じ指導者の道に進んだ。プロ野球選手の大瀬良大地、馬原孝浩、新垣渚らエース級投手など20人をプロへ送った名監督として知られるが、自身の野球人生の骨格を形づくったのが、“栽野球”だったという。

不利な環境や時代性を逆手にとって、一気に米国流を導入

仲里さんら豊見城高校と沖縄水産高校の教え子たちが語る“栽野球”は、それまでの野球練習の定番を覆す「先見性」にあふれ、不利な環境や時代性を逆手にとった。どこか、子どもたちの内心に宿っていた卑屈さを押しのけるような、熱と勢いを帯びていた。

指導する栽監督の様子(撮影=吉見万喜子)

仲里さんが栽氏と出会った当時、沖縄はまだ米軍統治下にあった。戦後混乱からの復興の途上にあり、物資や情報の乏しい時代。本土の野球のことはよく知らないが、フェンスを挟んで地続きの「米国」は近い。米軍基地内のテレビ放送を見ることができ、本場プロスポーツの手本と憧れがあった。

栽氏自身も、中高生の頃から基地内で行われる野球チームの試合や練習を間近に見て育ち、ダイナミックな米国野球の虜になった。パワーを鍛えるアメリカ人選手をまねて、早くから手製のダンベルなどを使ってウエートトレーニングに励んでいたという。

栽氏は、野球を続けるために中京大学に進学したが、選手としての限界を感じ、3年生の頃には「教員監督」になる目標に切り替え、野球部を退部。夏休みなどを使って全国の高校野球強豪校を訪れ、練習方法の研究に明け暮れた。大学で自身が突きつけられた、本土との違いとレベルの差を目に焼き付け、強さの理由を探り続けた。全てはいつか、沖縄の子を甲子園で勝たせたい一心だった。