政治的分断の下でメディアの選択肢は二つしかないが…

とはいえ、「悪い知らせを伝える者は疎まれる」のも、悪い知らせのほうがニュースバリューが高いのも、いまに始まった話ではない。マスコミが批判されるのには、それ以外にも地域や時代ごとにさまざまな要因がある。

まず挙げられるのが、政治的分断の進行だ。分断が起きている状況下では、メディアには大きく分けて二つの選択肢がある。

一つは、党派性を明確にし、一方的な意見ばかりを伝えるという選択だ。幅広い層から読者や視聴者を集めることは諦め、特定の層にのみアピールする。もちろん、立場を異にする層から激しい批判を浴びることは覚悟しなくてはならない。今回のケースでいえば、オリンピック翼賛で完全に腹をくくったメディアということになるだろうか。

もう一つは、意見の対立がある場合には双方の見解を紹介するなど、ある程度の中立性は保持するという選択だ。しかし、どっちつかずのそうした手法は、強い意見をもつ人びとからの反発を招きやすい。「明らかに間違っている意見」や「重要ではない問題」をなぜわざわざ取り上げるのかという話になってしまうからだ。

オリンピックは盛り上げたいが、かといって反対意見や開催にまつわる問題を完全に無視することもできない。そうした煮え切らなさは、賛成派と反対派の両方からの批判を招くことにもなる。このように、政治的分断が深まれば、マスコミがどのようなスタンスをとろうとも、批判が生じるのは避けられない。

国境を越えるネットの影響力は無視できない

もっとも、いくつかの研究をみる限り、日本社会においてそれほど政治的な分断が深まっているようには思われない。むしろ、もめやすい話題はなるべく避けたいというのが大多数の心情だろう。

それではなぜ、ネット上では先鋭的な意見や、それに基づくマスコミ批判が目立つのだろうか。SNSに関する研究では、政治的な書き込みの過半数は、強い政治的意見をもつごく少数のユーザーによって行われているのだという。世の中の大多数は、ネット上で政治的意見を開陳したりしないのが現状だ。

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そうした一部のユーザーからすれば、マスコミはそもそも偏向しているか、それとも両論併記などと称して「間違った」意見を垂れ流しているということになりがちだ。ネット上にマスコミ批判が満ち溢れている理由の一端は、こうした観点から説明できる。

だとすれば、ネット上の批判など、意識の高いごく一部の層が文句を言っているにすぎないのだからスルーしてもよい、ということになるのだろうか。

しかし、オリンピック開会式直前のごたごたからも明らかなように、ネットで発せられた声はしばしば反響しあい、時に国境を越えて広がっていくことで、いまや無視できない影響力を持つに至っている。

加えて、若年層がSNSを主要な情報源としている現状も無視はできない。マスコミ自体への接触が減少し続けるなら、ネット上の批判ばかりが目に入ることが多くなり、「嫌なもの」というイメージだけが蓄積されていくことにもなり得る。