五輪に「あいまい」な人たちを記録すべきだ
話をまとめよう。利害関係者としてのマスコミは、その立場上、オリンピックを盛り上げざるを得ない。他方で、報道機関でもあるがゆえに、今回のような状況下では盛り上げに徹しきることもできない。そのため、オリンピックに賛成する側からも反対する側からも批判を呼ぶことになる。
しかも、長期にわたるコロナ禍のストレスのせいで、人びとの不満は政府や国際オリンピック委員会のみならず、マスコミにも向かいやすくなっている。SNSではマスコミ批判がもともと盛り上がりやすい構造がある。
以上を踏まえると、オリンピックのおかげでテレビの視聴率が上がり、配信記事の閲覧数が増えたとしても、マスコミ自体のイメージは悪くなることはあれ、良くなることはなさそうだ。今後の感染状況いかんでは、マスコミに向けられるまなざしはさらに厳しさを増すことにもなり得る。
実際、オリンピックに関するマスコミの無節操さ、あいまいさに対して、ネット上ではすでに厳しい声が上がっている。ただ、本稿の冒頭でも述べたように、そうしたあいまいさは、可視化されない無数の人びとにも共通するものだ。多くの視聴者は「絶対賛成」とも「絶対反対」とも言い切れないままに、オリンピックを楽しんでいるのではないかと思う。
個人的に期待したいのは、活躍した選手のみならず、絶対賛成の人や反対の人、あるいは全く無関心な人(前回の東京大会の時よりもずっと多いはず)も含め、そのように複雑な心境で2021年の夏を迎えた多くの人びとについての記録だ。
「事前の反対も忘れてみなテレビにかじりつきました」という単純化された物語に回収されない人びとの姿を記録しておくこと。おそらくそれが、今回のオリンピックについてマスコミが後世に残すことのできる最大の「レガシー」ではないだろうか。