あのマンガがヒットした理由には、複雑なプロットによる頭脳戦の面白さもさることながら、誰しもの心に「あいつを殺してやりたい」という相手が一人か二人はあって(それは身近な人間であることもあれば、ニュースでみた凶悪犯罪者であることもあるだろう)、そうした秘めた暗い願望を巧みに創作に取り込んだというところにあるのではないだろうか。
武士も恐れた“呪力”
もちろん現実世界ではそれを実現することは叶わないのだが、マンガのなかでそれを実現してくれるダーティーヒーローに対して、読者が半ば共犯感を抱く設定の妙は大きい。
しかし驚くなかれ、すでに述べたとおり、室町時代に「デスノート」は実在していたのである。死因や死亡時期は特定できないものの、複雑なルールや変な副作用もないので、ある意味で「名を籠める」のほうがシンプルで効率的ですらある。
この他にも、同時代に「名を籠める」制裁は、興福寺を蔑ろにする不届き者に対して、たびたびその威力が発動された。
箸尾為国事件の前年、文明17年正月には、平清水三川なる人物が死亡したが、この男はさきに興福寺の大乗院門跡の所領を不法占拠した罪で五社七堂に「名を籠め」られた者だった。そのため、このときも彼の死は「御罰」が下ったものと、多くの者たちに認識されている。
こんなわけなので、領民の側も、この「名を籠める」制裁を心底恐れていたようである。大和国勾田荘(現在の天理市)の年貢2年分と運送料を横領した豊田猶若という人物は、その罪によって「名を籠め」られたが、明応8年(1499)12月、謝罪のうえ横領分を弁償することで、その名を堂内から取り出してもらうことを許してもらっている。
このように、「名を籠める」習俗は、寺僧たちはもちろん、領民たちにまでその効果が強く信じられ、宗教的制裁としての類まれな威力を発揮していたのである。
鎌倉~室町時代というと、鎌倉幕府や室町幕府に集った武士たちが“歴史の主役”で、坊主や神主は“前時代の生き残り”、あるいは武士に比べて“無力な存在”というイメージをもつ人がいるかも知れない。たしかに武士たちがもった“武力”を侮ることはできないが、当時においては僧侶や神官たちがもっていた“呪力”というのも、場合によっては物理的な暴力よりも当時の人々を震撼させる巨大な力であったのだ。
戦国の梟雄、呪詛に敗れる
室町後期に活躍した越前国の大名で、朝倉孝景(1428~81)という人物がいる。彼はもともと越前国守護である斯波氏の家老の一人に過ぎなかったが、応仁の乱の最中に西軍から東軍に寝返るという離れ技を演じ、大乱の戦局を一転させたうえ、その功績で越前国の守護職を手に入れるという、“下剋上”の権化のような男だった。