「男としてきちんとしていること」というプレッシャー
わたしは、男性が泣くことができず、誰かに泣き言を言うハードルも高いことの理由の一つに、「男としてきちんとしていること」を深く内面化している問題があると感じている。
この問題、じつは相談者の側だけにあるのではない。相談を受ける牧師の側もまた、「男としてきちんとしてしていること」に縛られている現状が存在する。わたしが属する牧師の業界では女性の牧師はまだまだ少なく、男性が圧倒的に多いことも背景にある。
ほんとうに信徒がそう思っているかはともかく、「信徒からの期待に応えなければならない」というプレッシャーを抱える彼ら男性牧師の多くは、信徒の前で弱さを見せることを恐れているようにもみえる。
職業柄、仕事とプライベートとの区別をつけにくい牧師は、「牧師は私生活も含めて信徒の模範である」という緊張にさらされる。
そうやって自分自身を追い詰めていくなか、彼らは「仕事は有能で、善き家庭人でもある」牧師像を無意識に求めるようになる。
わたしがこの「男としてきちんとしていること」の問題について考えずにはおれない背景には、わたし自身が味わった苦しい体験もある。最後に、そのことについて少しだけ語らせていただく。
「模範的なより夫婦像」が妻を追いつめてしまった
わたしの妻は結婚直後から心身の不調に苦しんだ。「牧師夫人」を演じなければならないというプレッシャーが彼女を追い詰めたともいえる。わたしは自分なりに彼女を支えようとした。
料理や洗濯などの家事もなるべくわたしがやった。だが、ほかでもないわたし自身が「なぜ彼女を助け、支えるのか」について、向きあうことはまったくしなかった。
いま振り返ると当時のわたしは、彼女のことを心配していたというよりもむしろ、「牧師が家庭問題を抱えていては体裁が悪いのではないか」という不安に駆られていた。だから模範的なよい夫婦像を渇望していたのだと思う。
また、他の教会の牧師夫妻が夫婦ともども健康で、子どもも数人おり、その子たちがすくすく育つ様子を垣間見るにつけ、子供のいないわたしは自分たちと彼らとを比較し、悩んだ。
わたしの妻は子どもを切望していた。では、わたしは子どもを欲しているのか? わたしは考えることから目をそらし、妻と向きあうことから逃げた。また、そうやって逃げる自分を、精神的にも性的にも「男として未熟だ」と責め、他の男性牧師たちに対して劣等感を募らせた。
精力的に仕事をこなす同僚牧師。彼らを支え信徒を歓待する、元気で活動的な牧師夫人たち──彼らには彼らの苦悩がとうぜんあったはずなのだが、わたしは勝手に彼らに対して「悩みの少ない、きちんとした家庭の夫にして父親」像を投影し、羨み、妬んだ。そして、自分もそうあろうとして「妻を支え」続けた。
そういう「支援」が、果たして妻をリラックスさせたか?──彼女は回復するどころか、倒れてしまったのである。