77歳の母親は、真夏にセーターやダウンを着て歩きはじめた
2人は学生時代から交際していたが、母親は結婚に大反対。母親は小林さんの知らない間に、水面下で自分の条件に合う結婚相手を探し、娘の釣書(身上書)を渡すなどしていた。母親の周囲には、小林さんにはすでに結婚を決めた人がいるとは知らずに、親身に相手を探してくれていた人もおり、母親とトラブルになっていたようだ。
「母の希望は、できれば自分と同様に娘が婿養子をもらうことでした。もし、それが叶わず、娘を嫁がせるなら、自分の面倒もみてくれそうなお金持ちの男性を望んでいました。最終的に、現在の夫と結婚することが決まったのですが、両家の顔合わせのとき、母は夫の両親に『娘が嫁いでしまったら、私は今後どうなるんでしょうか?』と言い出し、このことがきっかけで、両家で少し揉めたのを覚えています」
結局、小林さんは結婚して、母親を振り切る形で家を出て、夫とともに東北に移り住んだ。
「過干渉な母親から逃れたい」と常々思っていた小林さんは、せいせいした反面、「母親を1人ぼっちにしてしまった」という罪悪感に苛まれ、結婚後も「実家に頻繁に帰省しないといけない」という強迫観念にも似た気持ちに責め立てられていた。
結婚してから小林さんは、2~3カ月に1度は実家に顔を出すように努めた。子どもができてからは、子どもを連れて帰省。母親は孫たちをかわいがった。
ところが、それから10年ほど経った2005年の夏、母親が77歳、小林さんが30代の頃、実家の近くに住む母親の友人から、おかしな話を聞くようになる。「お母さんが真夏の暑い中、毛糸のセーターやダウンを着て歩いていた」とか、「期日を伝えておいたのに、町内会費を払ってくれない」などだ。
その頃の母親は、外出をほとんどしなくなり、毎日誰にも会わず、家の中にこもるようになっていた。また、老人性難聴のため、耳が聞こえづらくなり、それに伴って認知の低下が見られ始めていた。
「当時母は、鬱のような症状もありました。私は、養女として育てられた子どもの頃からの積み重なるストレスや、父が亡くなってからも、養父母のもとで2人の世話と子育てをたった1人でしてきた心労に加え、老後あてにしていた私が遠方に嫁ぎ、1人ぼっちになった不安感や虚無感、孤独感などが、母のうつ症状や認知症を進ませる原因になったのではないかと思います」
「一人ぼっちにさせた私がいけなかったのか…」母に振り回され続ける
小林さんは母親のことが心配になり、「私の家の近くに引っ越してこない?」と提案。すると初めは「住み慣れた土地を離れたくない」と言って嫌がった母親だが、やはり1人で暮らすのが不安になってきていたようで、「あなたの家の向かいになら住んでもいい」「向かい以外は絶対に嫌」と条件付きで承諾。ちょうど小林さんの家の向かいは、土地が売りに出されたところだった。
2005年11月、母親は小林さんの家の真向かいの土地を購入。そして約3カ月後に家が完成すると、母親が引っ越してきた。
当時は、長男は小学校高学年、長女は低学年。実家は母親の思い入れが強く、二言目には「ここで上手くいかなかったら帰るところが必要だから、私の目の黒いうちは処分しない」と言ってそのままの状態だ。
この後、毎日のように母親に振り回され、小林さん自身が体調を崩すほど辛い日々が待っていようとは、このときは想像もしていなかった(以下、後編に続く)。