私の家は芸能が大好きだった。父も母も歌舞伎のファンであり、父は七世松本幸四郎、母は十五世市村羽左衛門に熱を上げていた。昭和十八年頃、二人は新京(現・長春)まで汽車で出て、そこから飛行機をチャーターして東京へ。この二人の名優が演ずる『勧進帳』を歌舞伎座まで観にいったものだ。

芽がで、枝がのび、花が咲く…

母は若い時分から三味線を習っていたものらしく、私の記憶が明瞭になった頃には相当な腕前であった。というわけで、広間の電気蓄音機から『勧進帳』はもとより長唄や清元、常磐津が聞こえてこない日はなかった。

兄が帰ってくると話は一層盛り上がる。兄も姉も歌舞伎のファンであるから、二人で『勧進帳』の弁慶と富樫の問答を丁々発止とやりだす。

「そもそも、九字の真言とはいかなる義にや、事のついでに問い申さん。ささ、なんと、なんとー」と姉の富樫が問い詰めると、「九字の大事は神秘にして、語りがたきことなれど……」と兄の弁慶は幸四郎の声色を使ってやる。

それは見ていてうっとりとする光景であった。

私が五歳くらいになると、「禮三、お前、判官ほうがん(義経)やってみろ」と兄に言われ、私もいつしか覚えた台詞せりふ「いかに弁慶、道々も申すごとく……」とそれらしく言ってみると、「ようよう、上出来、上出来」と褒められ。それ以来すっかり『勧進帳』にはまりこんだ。それはいまだにつづいている。

私のソウル・ミュージックは長唄『勧進帳』にとどめを刺す。つまりこの魂の音楽が私の精神生活の最初の種子ということになる。そこから芽がで、枝がのび、花が咲く。思えば神秘なことだ。

今では十二世市川團十郎の弁慶、片岡孝夫の富樫のCD『勧進帳』が夜毎の子守唄だ。

大地の子の音楽的めざめ

私たち満洲育ちの子供たちはなにを歌っていたか。今思い返してみると、かなり貧弱な音楽的環境に置かれていたことは確かであり、愛着のある歌は一つとして思い出せない。

第一に、満洲国は五族協和、王道楽土の理想国家である。平和が暗黙の約束事項であったから、町中を関東軍の兵士たちが闊歩かっぽしたり、戦車や武器弾薬が移動する場面を見ることはほとんどなかった。

こうして静謐せいひつを保つという態度は国境を隣り合わせているソ連にたいするいわば牽制けんせいであり、われら満洲はかくも平穏な生活を営んでいて、国境を侵そうなどという意志は毛頭ないという示威行為の一つであったと思われる。