韓国人乳母の肌の感触
最初に覚醒した私の触覚は何に触れていたのであろう。
韓国人の乳母、乳母といっても母乳を飲ませるのではなく、瓶入りの牛乳を私に飲ませ、寝かし付ける人、添い寝係と言えばいいか。その若い娘の歌う朝鮮の子守歌もかすかに記憶の底にあるが思い出せない。だが、私の指の先は若い乳母の肌の感触をはっきりと覚えている。やわらかくて、なめらかで、あたたかくて、ふわふわしていて、泣きたくなるような甘い匂いのする心地好いものだった。
生まれて初めて、私の脳に意識の灯がともり、触覚が覚醒した時、私は若い娘のむきだしの肌に抱かれていたということだ。この娘が、私が初めて触れた人間であった。この経験は、その後の私の人間観や女性観に大きく影響したに違いない。
この娘の添い寝は私が生まれてすぐに始められ、昭和二十年八月ソ連軍が侵攻して来る日まで、つまり六歳いっぱいまでつづいた。その乳母は日本名で愛子と呼ばれていたが、四歳頃から私は愛子の若さと美しさを十分に意識し、夜になるのを心ひそかに待ちわび、寝室のある二階に連れていかれる時は、顔が赤くなるほど胸躍らせたものだ。
私は努力していつまでも目覚めていて、愛子の肌の感触と匂いに酔いしれていた。愛子は私のなすがままだった。優しい娘だった。
歌舞伎のファンだった父母
そのうち、私の耳に大人たちの歌う歌が聞こえてくるようになった。私の部屋は二階にあり、階下の歌声はざわめきとともにややくぐもった感じで言葉は不明瞭であったが、なんども聞いているうちに聞き取れるようになった。
日本から来ている酒造りの杜氏たちが社長である私の父親からのふるまい酒に酔って歌っているのだ。『国境の町』『誰か故郷を想わざる』『人生の並木路』、この三曲が定番で、杜氏たちは酔うたびに歌った。そして最後には、歌声はすすり泣きに変わった。
「ああ、日本に帰りたいな。日本はどうしてるかな」、これがまた彼らの口癖だった。
この言葉を聞いて初めて、私たちは、日本という国から遠く離れた満洲の地で暮らしているのだという事実を知った。
私には十四歳年の離れた兄と七歳年上の姉がいる。兄は東京で大学生活をしていて、夏や春の休みの時期にはかならず帰ってきた。帰ってくれば得意のアコーディオンでタンゴを弾いた。その音楽の響きは幼い私の耳にも華やかに聞こえ、私はまだ見たことも聞いたこともない異郷に想いをはせた。また姉は日舞を習っていて名取でもあった。父はそれが自慢で、娘を連れて関東軍の駐屯地に再三慰問に赴いた。