地元で就職したけれど、1年半が限界だった

また、実家を出ることは難しくなり東京の出版社で働く夢も諦めた。宮城の出版社に就職をして1年半働いたけれど、それができたのもおばあちゃんがその間来てくれたから。おばあちゃんの体力的にも1年半が限界で、そこで私は退職したけれど、おばあちゃんがきてくれなかったら私は就職自体を諦めていたはずだ。

退職後は一人で母を介護する日々。ケアマネさんもいてヘルパーさんも来てくれていたけれど、短い時間だった。姉が月に1週間ほど東京から実家に帰って私を休ませてくれたけれど、それだと姉も東京で働き続けるのはかなり厳しかったはずだ。

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介護は「愛」だけで片付くものではない

当時、介護から逃げるような気持ちで遠距離恋愛を始めていた私は、彼にだけ自分の中の“子ども”を全て解放して甘えていた。これはかわいく聞こえるかもしれないが相手に相当な負担をかけることだ。母が寝て、夜中に起こされるまでは自分の時間。そうなると彼に電話した。楽しい会話のことも多かったけれど、夜中怒り出したら止まらないこともあった。

心底申し訳なく思っており、彼にしたことを言い訳するつもりもない。が、そこまで私は追い詰められていた。夢があって、仕事もしたくて、遊びたくて、何か自分が成長できていると実感することが欲しかった。でも、それができないどころか、ぐっすり寝ることすらできなくて追い詰められる。

母は大好きだし、母の力になれていることで沸く嬉しい気持ちもあったけど、「逃げ出したい」という気持ちが並行してあった。介護は「愛」だけで片付くものではないと当時痛感した。誰かの助けと、助けてもらっている時に沸く罪悪感からの解放と、自分の時間が必要だった。

姉に泣きついて、追い詰められている気持ちを全部伝えたら、すぐに実家に戻る手はずを整え、母の介護を共にすることとなった。きっとたくさんのことを諦めたはずだ。そして、姉はすぐ現状について当時のケアマネさんにかけあっていた。

私は「え? ケアマネさんがやれることは全部やってくれているのでは?」と思っていたが、姉が掛け合った後、ヘルパーさんが来てくれる時間が伸びたのだ。母の病状がきちんと伝わってなかったそうだ。やはり、一人で追い詰められていたら、そういうことにも気がつかないんだと痛感した。