犬山紙子さんは29歳で文筆業を始めたとき、「ニート」と名乗っていた。しかし、本当は20歳の頃から母親の介護をしており、ずっと思うように働けない状況だった。犬山さんは「当時は個人的な問題だと思い込んでいた。10代で介護をしている人もたくさんいる。子供の生活が親の介護で脅かされることがないように、公的支援を充実させるべきだ」という――。
車椅子の年輩女性
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20歳の時にスタートした母親の介護

デビュー当時、私はニートだと名乗っていた。本当は母の介護を10年近くしていたし、その中でヘルパーさんがいる時間に、夢である漫画家、エッセイストを目指して作品も作っていた。今思えばとっても頑張っていたし無理もたくさんしていた。家事も介護もしていたが、仕事を辞めてお金を稼いでいないことに引け目を感じていたんだろう。

そして「みんなが働いたりしている間に、自分はこの先のキャリアのために何かできているんだろうか」という焦りがとてもあった。あと、「もっと大変な人はいるはず。きょうだい3人で手分けして介護している自分が介護をしていると名乗るのはダメなんじゃないだろうか」とも思っていた。いろんな気持ちが交錯して、私はニートを名乗っていたのだ。これはさまざまな事情を抱え、ニートである人に対して失礼でもあった。

なぜ、自分を認められなかったのか。まずは私の介護の経緯を書こうと思う。

私が20歳の時、母の動作が緩慢になったり、手が震えるようになったりした。大きな病院で検査をすると難病の「シャイ・ドレーガー症候群」だとわかった。この病気は早期の段階から日常生活に支障をきたすので、すぐに私たちの介護生活はスタートした。介護生活というと介護だけと聞こえるかもしれないけど、母がやっていた家事もやることになるのだ。

「あの時の私に適切な知識があれば…」

介護初期、家に母を置いて、犬の散歩で15分間家を留守にしたことがある。帰宅すると、料理をしようとした母が、キッチンの棚に腕を挟んで動けずに苦しんでいた。「私がおらん間危ないことせんといてな」と声をかけて出ていったけれど、母は、自分の誇りであり生きがいでもあった料理がしたかったんだろう。まだできると思いたかったんだろう。料理が危ないことに入るだなんて思いたくなかったんだろう。

駆け寄って抱きとめた時に、母の悔しい気持ちが本当に伝わってきた。でもまだ若い私は母に適切な言葉をかけられず、それどころか「もう何やってんの!」と怒ってしまった気がする。母は何も言い返さなかった。あの時の私に適切な知識があればと今でも思う。

車椅子生活になった母は80キロくらいまで太り、介助も大変になった。一人で抱えて、立ち上がらせたり、座らせたり、寝かせたり。20歳なのにぎっくり腰を何度かやった。排尿、排便にも障害があるので、夜中に母がベルを鳴らすと飛び起きて、トイレで30分格闘。これを何度も繰り返す。夜中に一度も起きずぐっすり眠ることが夢のようなことだと、この頃痛感するようになった。